日本郵船小史7~小樽支店事務所と倉庫の新築

2016年06月06日

CIMG9629昭和37年10月

北海道に於ける日本郵船小史

      目   次

 ・・・

(四)明治時代後期(明治31年ー45年)

(1)航路の変遷

(2)日露戦争中及び戦後の経営航路

(3)小樽支店事務所と倉庫の新築

  (事務所新築後樺太日露 国境劃定会議場となる)

 (イ) 倉庫及び舟入澗

 神戸・小樽東廻、西廻線、函館小樽線、小樽宗谷線等の当社者船の小樽入出港が増加し、本州出入貨物及び函館本線開通前の道北・道南沿岸・道央出入貨物の荷受荷渡の円滑化を計るため、明治20年代に購入した手宮町北浜町の土地に木造及び石造の倉庫を建築した。明治36年(1903年)4月の手宮町火災で木造倉庫及び事務所が焼失したので、焼失跡に亜鉛葺石造平屋倉庫及び二階建事務所を新築した。同建物は大正13年(1924年)12月27日の小樽手宮駅構内の爆発に際し附近家屋、鉄道、船舶に多大の被害があったに不拘ビクともしなかつたと伝えられている。

    ○北浜町10,11号倉庫(輸出用)

     新築年月  明治31年10月

     坪  数  160坪

    ○手宮町1,2,3,4、号倉庫(輸入用)

     新築年月  明治36年10月

     坪  数  328坪

     新築価格  33,769円06銭

    ○北浜町6,7,8,9号倉庫(輸入用一部輸出用)

     新築年月  明治37年10月

     坪  数  600坪

     新築価格  51,247円68銭

 当時は総て沖荷役であつて、艀積卸の便を計るため倉庫前面に明治37年(1,904年)運河に直結した舟入澗(※)691坪87が構築された。

 ※(註)舟入澗は明治37年構築されたと称せられているが、木造倉庫があつた時代に舟入澗があつたと云う人もいるので、37年以前に構築されたと思われる。

 同舟入澗は昭和36年5月に埋立てられた。

 (ロ)  事務所(現小樽博物館)

 手宮3丁目5番地に当時のもっとも新しい英国式の建築様式にならい佐立七次郎工学士(のち工学博士)と英人顧問技師の設計により明治38年起工、木材は道産楢材、外装の軟石は天狗山の砂眼石、金具類、壁紙は英国製の者を用い工期1年を費し39年(1,906年)10月1日に新事務所を竣工した。新事務所は1階147坪2階145坪新築価格は59,941円22銭であつた。

同事務所は新築のよく11月13日に樺太日露国境々界線に関する会議室に使用せられた。会議出席者農学士志賀重昂氏の記録によれば当日の模様

を次の様に伝えている。

「11月13日(火)曇 午后1時半日露両国委員会議

小樽なる日本郵船会社支店にて開催、郵船会社支店にては日露両国の会議室に充てられたるは面目なりと手北海道名産タモの木材にて縷めたる貴賓室の中央に大卓子を据え、上に大輪なる黄白の菊花と翠滴る松の盆栽を按排し、周囲殊に典雅なり。

六時閉会。閉会後郵船会社支店長土方信吉(※1)より茶菓の饗応あり、支店長は三鞭酒の杯(※2)を挙げて、支店の一室が日露両国の国際上の用に充てられたるは望外の栄誉なりと挨拶するや露国委員長は世界に航路を拡張せる日本郵船会社の支店にて此の如き丁重なる待遇を受くるは、亦吾々一行の光栄なりと答礼し、七時散会。」

 ※(註)(1) 当時の支店長は大崎宗吉氏(33年~40年)にして、

       大崎氏は病弱休み勝ちであり記念写真は土方信吉氏

       に間違ないと云われたので、土方信吉氏は庶務係長

       或は副支店長代理出席したものと思われる。

 ※(註)(2) 会議終了後の乾盃出席者

        日本郵船支店長      土方 信吉

       日本委員長陸軍砲兵大佐  大島 健一

       陸軍砲兵中佐       渡辺 岩之助

       陸軍歩兵大尉       畑  英太郎

       海軍大尉         和田 勇二

       陸軍一等主計       水津 武之進

       陸軍一等軍医       北島 庚吉

       嘱託理学士        平山 清次

       嘱託農学士        志賀 重昴

       陸地測量士        中崎  推

       地形班長         矢島 守一

       通訳官          樋口 艶之助

       通訳官          石井 良直

       露委員長陸軍参謀中佐   ウォスクレゼンスキー

       陸軍一等大尉       エー・アフマメチエ―フ

       陸軍少尉         ノウオ・シリーツオフ

       通訳官          ピヨトル・サウエーソエフ

 

 移民休憩(現支店事務所)

 南浜町4丁目11番地港湾埋立地敷地(国有地)

 131坪22は北海道庁が北海道の拓殖時代に政府より無償貸下げを

 受け北海道移民休憩用地として拓殖事業に関係せる北海道協会(※)

 に無料貸与したものである。樺太が領有となつた明治38年に北海道

 協会は移民休憩所を建築するため日本郵船会社(当時支店長生尾

 久治)・小樽回漕業組合及び小樽乗用艀合資会社(現共同通船

 株式会社)の3者に寄附を仰ぎ前記敷地に移民休憩所を建築した。

 (昭和18年8月、19年5月建物、土地を購入し当社所有物となつた。)

 ※(註)北海道協会は北海道の拓殖に関する事業及び斡旋を行うため

     地元北海道庁の中央に於ける幇助機関として明治26年3月

     故近衛篤麿侯爵を会頭に故徳川篤敬侯爵を副会頭として東京

     に設立せられた政府機関である。

IMG_0551明治19年

IMG_0556明治36年

IMG_0557昭和15年

 

『確か、以前、友と日本郵船を見学した際、観光ガイドの方が…。』

「火災の後、向かいの倉庫(石造り)が残っていたので、日本郵船は新築する際、石造りにしたんですよ。」とおっしゃっていました。

てっきり明治37年5月8日の稲穂大火のことだと思っていましたが、明治36年(1903年)4月の手宮町火災のことだったんですね。

四十年誌によると

「明治三十六年 衛生組合組織変更せられ、連合組合事務所特設せらる。その年四月十八日手宮裡町豆腐店より失火し、折からの暴風のため七百五十戸(手宮七部どおり)余(あまり)、焼失し、手宮目抜きの場所は焼け野原となる。」(p123)

IMG_5402 (2)では もう少し詳しく

〇豆腐屋火事ー

 同三十六年四月の十八日のこと、豆腐屋より出火し、手宮目貫のところ、七百五十余戸焼失、この時吹卸の強風にて海岸まで焼け貫き、手宮町、一本筋の道路を絶たれた爲に、焼け放題で郵船會社等も丸焼で[倉庫とも]あり、手宮六七部を焼盡したのであります。

然れども小樽の急進的時代にて、一年ならずして見事復興し、火事の惨害を忘れたるものの、如くでありました。郵船会社の今の建物は其時の建築であります。

CIMG9761明治36年手宮町火災で残った倉庫

IMG_5581小樽市の歴史的建造物 歴史的建造物の実態調査(1992年)から

(二次番号):16-57

(現建築名):小樽倉庫

(旧建築名):茨木倉庫

(所在地) :色内3丁目

(建築年) :М31

(構造)  :木骨石1