小樽の町は・・・・㉓
2016年02月20日
幌内鉄道の開通でツキが回ってきたのが小樽だ。
その一ひと昔前、旅人の筆で描かれた小樽は
当所(小樽)人別、当春中御調ニ相成リ候トコロ、尽ク諸国脱走者ニテ一命ニ及ブ程ノ者モ両三人。貧ニシテ在所ノ住居相成ラズ参リ候ニテ極上ノ人物ノ由(明治三年、宮島幹『北行日記』)
一命にも及ぶほどの大事を犯して逃げてきたものが三人。貧乏で故郷にいたたまれずに、この地に流れてきたのが“極上の人物”だというのである。
いってみれば、この地は諸国の敗残者の吹きだまりであった。
ところがいまや一転して
すでにして手宮札幌間の鉄道成り運輸を開くにあたり其実況を見るに、小樽、札幌とも出入の貨物追々輻輳し、商人は常に先を争ひ貨物の運輸を請求する程なり。上客、貨物とも殆んど予算を倍せり(明治十五年四月二十二日『函館新聞』)
社会面の片すみに載ったちっぽけな記事ではあるが、小樽にとってその意味するところが大きかった。
三菱会社がさっそく同社の最新鋭船を投入して函館ー小樽間に定期航路を開設する。
入港する船舶も、明治十二年にはたった四十七隻だった西洋型帆船が、鉄道の試運転が始まった明治十三年にいっきょに百五十六隻になった。
同じく明治九年に六隻しかなかった汽船の入港が、明治十三年になって、なんと百八十四隻に増加した。(梅木通徳『北海道交通史』)
それに伴って人の往来もにわかにしげくなる。当時二軒しかなかった旅館は増築の突貫工事。
港に船が着くたびに繰り返すその客引き合戦はにぎやかな見ものだったという。
明治六年の人口が小樽、高島両郡合わせても二千人。それが明治十五年には小樽郡だけで一万二千九十二人。そのうち漁業、商業人口が三分の一で、半数以上の五千三百人が雑業人口である。
雑業といえばまだきこえはいいが、はやくいえばその日暮らしの定職を持たぬ流れ者、あるいは一旗組だ。
それだけなら当時の北海道では格別目新しいことではない。ただ、ひとつ興味深いのは、こうした八方破れの連中のよりどころとなったある慣習。
たとえばそれはこう説明される。
新移住者は先住者である顔役をたずねてその身元引受人になってもらう。その身元引受人を『草鞋脱ぎ』と称して特別の敬意と尊敬を払ったものである。身元引受人を頼まれたものは官庁に対して責任を持ち、自らその怠惰、非違の戒飾、賑恤の責務と情誼とを持っていた。(小樽市史)
境遇の似通ったもの同士が持ち合う親近感がそのきずなであろう。
それはすぐに、いわゆる親分子分のタテのつながりのみに固定してゆくのだが、
いまでも小樽を含めた港町にある一種独特の人の結びつきの根には、案外この“ワラジぬぎ”の素朴な感覚が生き続けているのかもしれない。
~北海道百年 小樽関係抜粋より

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