おたる百年の点景⑫ 陸運

2022年08月26日

IMG_3163昭和初期、札樽間で雪と戦う国鉄トラック

 明治二年の冬十二月。雪空を通して銭函と札幌の二カ所に連夜、高い烽(ほう)火が立った。この火柱を目当てに、雪に埋もれる樹林は、両地区間から次々に切り倒されていき、あとに幅十八㍍の道路がつくられていった。-しかし、雪降る樹海の真っただ中。なかば憶測のこの苦心の伐木工事によって作られた路翌三年、非常なくい違いがわかり、また、湿地に悩まされてついに中止された。

 それまでの小樽―札幌間の路は漁夫、かりうどたちの歩いたあとにできた草みち。島開拓判官も書簡に『函館以北実に世界第一ともいうべき悪路にて、人馬ともに足を入るる処これ無し』と述べているほどそまつなものだったのである。

 それだけに道路築造は開拓の前提と開拓使は、失敗を長くほうっておけず、翌四年九月から再び本府札幌の都づくりに、この道路工事を強行、人夫三万六千人を投入して六年七月銭函―札幌間に車馬の通れる道路を切り開いた。更に小樽―銭函間は本道鉄道の生みの親クロフォードが明治十二年、コレラの流行、二度の暴風雨との闘い、車道の築造はとても無理といわれていた神居古潭を征服して堅固な車道を完成した。歌にも歌われる〝札樽国道〟の誕生、住民の喜びのありさまは想像できよう。この道を、運輸状況視察にウワジオストクへ行った黒田長官が購入してきた馬車とソリが陸運機関として活躍した。函館新聞十三年三月二十一日付け〝小樽港近況〟は『小樽と札幌の間に開け足る雪車馬は追々大流行となり、暴風雪の日を除き、毎日三十頭より五十頭往還。馬丁は七分通り屯田(とんでん)兵なり。又札幌に至る往復時間は六時間内外』と当時のもようを伝えている。

 その後、道路は年々整備され、昭和九年国鉄バスの前身、省営自動車が一日四往復の運転をはじめ戦時中は小樽港から旭川の第七師団を結ぶ軍用道路として重要視された。戦後は二十八年、安全保障費八億円で完全舗装され、オネスト・ジョン(正直太郎)が白昼むき出しで走り〝うそつき太郎〟と呼ばれた。

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 明治初めの市内は道らしい道もなく、山田町は草ぼうぼうの野っ原。手宮にいくにはその中のシカの通る道をたどって、色内海岸をすぎてゆくより手がなかった。今の小樽駅付近はアイヌ部落。行商人が反物、薬を売りに出かけ農家から野菜を売りにくる程度。大森貝塚の発見者として有名なアメリカの動物、考古学者モースは小樽のはたご屋に泊まり著書『日本その日その日』(ジャパン・デー・バイ・デー)の中で明治十二年の小樽を次のように描写している。『海岸に近いあばら屋に一へや発見。実にきたない処で入り口から何人かが夢中になってのぞいている。われわれの動作ひとつひとつが会話の題材になるらしい。土地の人たちは海から出るなんでもかんでも片端から食うらしい。コーヒー一杯とバターを塗ったパンの一片が恋しくてならぬ。私は外国の野ばん人で子供たちと仲よくしようとすると恐怖から悲鳴をあげて逃げて行ってしまう』と。

 陸運の発達は鉄道が主役を果たす。明治十三年の開通の幌内鉄道は、小樽を漁村から商業都市に一変させたり道内唯一の石炭移出港となり、鉄道の伸びに伴い、石狩、旭川、名寄から十勝、釧路まで商圏におさめ、開拓民の上陸地、後背地の主要物資の供給基地となった。同三十八年の函館鉄道開通によって商圏は羊蹄山ろくまで伸び、本州との貨客の輸送も増大していった。しかし鉄道の排斥運動もあった。幌内鉄道はクロフォードの開いた道路の上に敷かれたため、汽車が通ると通行人は海に飛び込まなければならない個所も出た。また十四年にはニシン不漁は鉄道の音のせいだと、張碓沿岸の漁民が大挙して張碓トンネルを埋めようとし、警官ともめたこともある。

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 鉄道運輸の補助機関としては、明治末から大正初期にかけ内国通送小樽出張所が営業を開始、その後の乱立の時代を経て、昭和初期、旭川、留萌の業者を含めて合同、増資、北海道運送社の本店が小樽に置かれ十七年日通に合同した。陸上運送の機関は荷車、荷馬車から大正十年以後貨物自動車にかわったが、坂道も多く除雪車もない時代、市内、札樽間も冬は運休しがちだった。 

 市内の交通機関は人力車、客馬車から乗り合い自動車にかわっていった。現在も市民の足はバス、タクシーだが大正から昭和にかけ電車敷設の構想があったことはあまり知られていない。

 大正期、政友党系の手になる乗り合い自動車に対し、市議会に勢力を張っていた革新派(憲政党系)は市営電鉄案を議題に挙げていたが地勢の関係で実現しなかった。ところが昭和二年、札幌の先代地崎宇三郎、小樽の今井孝ら、時の青年実業家が新交通機関として懸垂電車の設置を運動しはじめた。札樽間をモノレールで結ぶという雄大な構想で、当時唯一のモノレール実用化が実現していたドイツの実情を三井物産などの機械部に調査させ、外遊中の小樽高商大野純一教授に資料をまとめてもらい、詳細な工事計画をつくり、市に猛運動、市民相手の演説会を開いたりした。

 しかし、このあまりにも新しい案は市民に敬遠され、資金集めも困難とみなされ、いつのまにか消えてしまったが、実現していれば、いまの羽田―東京間のモノレールが四十年も前に小樽―札幌間を走っていたわけで、当時の少壮実業家たちの大きさを知らされる話である。

IMG_3164ゆききのトラックで繁忙する小樽築港貨物ホーム

~おたる百年の点景 北海道新聞

昭和40年6月22日~7月22日連載より

~2017.4.10~