戦後は〝バンビ〟で 池田泰夫
2026年08月26日

道内の二大メーカーに
〝池田のバンビ〟ですっかり大衆に知れわたった池田製菓の社長。また総合食料問屋池田屋の社長でもある。
戦後、二十二年自由経済への突入とともに池田製菓を創立、配給パンの製造からキャラメル、ドロップに着手、二十六年には『日本のメーカーが外国とブランド契約したのは初めて』(永田雅一大映社長の話)という『バンビ』の商標を
デズニ―と契約するほどの近代的経営者。また品質の改良、新商品の開拓から社業を増進、現在従業員数二百八十人、年商十三億と〝古谷製菓〟と並ぶ、道内の二大メーカーに君臨、さらに来年は鉄筋三階建て三千三百平方㍍の総合工場を建設して求人難に対処、合理化する計画と、その意欲はなみなみならぬものがある。
泰夫は子供のころからフロンティアスピリットに富んでいた。このため商業学校を卒業すると、ただちに強度新潟をあとにして来道、小樽の雑穀や二奉公した。しかし、暴騰、暴落にあけくれるこの商売には、なんら魅力を感じなかった。泰夫は『これは自分の仕事ではない。もっと地道な商売を選ぼう』と、花園町でバナナ問屋を始めた。くだものも暑かったが、道内の玉ネギを満州に移出、その見返りに落花生を移入した。
泰夫は毎年伊勢神宮に参拝するのを常とした。昭和八年のある日伊勢に向かう特別列車『ツバメ』の食堂車で、ビールのつまみにバターピーナッツがでてきたのをみて『これだ』と胸のうちに手を打ちたたいた。『これは神宮の引き合わせだろう』と考えた泰夫は手持ちの落花生をバターピーナッツ、マコロンに加工、これを当時市販されたばかりのセロハンに包装、一袋五銭と十銭で売った。全国でも初めてのセロハン包装と盛んな新聞広告が大いにゆきわたり、飛ぶように売れた。『このときいいものを作れば売れるという体験と宣伝がいかに商品の拡張販売に必要であるかを痛感した』と泰夫はいう。ところがこれも統制経済にはいり落花生、砂糖が手にはいらず、戦時中は海でコンブのくずを拾い集め、、海宝めん(麺)として売り、食いつないだ。
戦後は『バンビキャラメル』として道内シェアを大きく獲得、さらに三十年から豆菓子に着手した。当時豆菓子は駄菓子でも三級だったが、品質を改善して一級品にのし上げた功績は同業者から大いに感謝されている。またことし秋田で行われた全国菓子博では最高の高松杯を得るなど名実ともに池田のエビス豆、うぐいす豆は品質が向上した。
さらに三十七年、時代に即応し、インスタントジュース、ココア、コーヒー、紅茶を販売、ことしは冷夏と言われたにもかかわらずジュースは前年比五〇㌫の伸びを見せたほど大衆から受けた。
『メーカーの信条は大衆から愛されること』これが泰夫のモットーだ。昨年からチョコレートにも力をいれるなど、菓子総合メーカーとしての意欲をみせる泰夫だが、その前途には洋々たるものがある。
(敬称略)
小樽経済百年の百人
北海タイムス社編
昭和四十年六月十六日~昭和四十年九月二日連載
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