『清治、蔵を建てて』 宮本清治

2026年08月27日

母の願い胸に三十年

 『世間の多くは内心、私を新参者扱いしている。私はそれを万もしょうちしている。事実、しにせ(老舗)のみなさんから見れば新参者でしょう。否定しようとは思いません。しにせはしにせなりに苦労をし、そして財を積み上げた。私は軽べつを尊敬で返しております』

 ひと口にいって清治とはこんな人物で、さからいの知らぬ人物である。人をほめても、くさしたことがない。彼を知るすべての人がそう評価している』

 清治は大正四年一月、市内稲穂町西七ノ二で瀬戸物屋の長男として生まれた。

 『根から商人に縁があったのでしよう。七つの時から学校に行く前には必ず商品を率先して店に並べた。夜は書き出しも書いた。だが小学校から高等科に進むころ、どうしたことか師範学校にはいりたかった。師範から高師、そして文理大、最後に校長先生になりたかった。理由は人を説得することが好きだったからです。』

 だが、夢は破れた。昭和二-三年、オタルは不況風のドン底にあった。都通りで三十軒のものあき家が軒並み出た。大黒柱の父もそのころ他界した。

 『清治、学校の先生では蔵が建たぬ。商人になれ、そして蔵を建ててくれ…』母の切な願い。『夫に先だたれ、そのころ家も傾きはじめていた。おまけに幼い私たち兄弟をかかえた母としては当時当然だったのでしょう…』清治はこの時ほど泣いたことはなかったという。清治は発ぷんした。

 その後約三十年、いばらの道の連続だった。海産物店―金物店―理容店の各店員―旋盤工―終戦。その十一月、暁部隊分造所の撤収先を借り受けた。いまのところだ。マーケットのように並んだ六軒の一すみを借りた。資本はわずかにケース一本、化粧品をおいた。知る人は知る。ケース一本の商いから、いまでは道内十五のデパートでも中以上にランクされる燃焼十五億円を売り上げる押しも押されぬデパートにのし上がったわけである。

 清治はこの間の業績を次のように語っている。

 『店を持ってから二十年、三つの山がありました。一つは河野呉服店の好意で店を借りれたこと。一つは二十四年、繊維の統制解除でひんぱんに東京、大阪から現金仕入れができるようになり、これがもとで明けて二十五年、三百五十坪の旧店舗を買収できたこと。三つ目は三十年に六百坪に増築、百貨店法により、デパートの一つに加えられたことです』

 正に順風満帆。だがこの陰には〝さからい〟を知らぬ隠忍自重、半面〝負けず〟のド根性。〝市民のために…〟というサービスをモットーにした誠意さ。これらの信条が出るクギは打つ、よそ者を軽視、毛並みと家柄を尊ぶ格式の町、小樽のゆがめられた風潮を打ち破り、ついに功成り名を遂げたわけだ。『清治、蔵を建てて…』母の切な願いは、りっぱにかなえられたわけである。

 

小樽経済百年の百人

北海タイムス社編

昭和四十年六月十六日~昭和四十年九月二日連載