非凡な経営感覚 野口喜一郎

2026年08月29日

 『いい気になるなわが気にまかすな、わが身に値打ちをつけるな』これは喜一郎の父吉次郎が常日ごろいっていたことばである。いわば『おごるな、いつも謙虚な心を持て』とさとしたわけだ。喜一郎はこの父をとても尊敬していた。このことを語るのに次のような逸話がある。

 喜一郎が小樽中学五年生のときであった。ある先生が君たちの尊敬する人物を書け』といったが、このとき喜一郎は、即座に『私の父』と書いた。同級生の堀末治=前参議院議員=は『豊臣秀吉』と書いたが堀はこの喜一郎の答えを見て非常にうらやましく思い、その後吉次郎の経営する店に一身を託したという。堀は当時秀才の誉れ高く米国へ渡る決心をしていたが、それをやめて野口商店にはいったわけで、それほど父吉次郎には人間的魅力があった。 

 喜一郎を語るのにこの吉次郎のことをつけ加えねばなるまい。吉次郎は石川県の金沢在で水呑み百姓の四男として生まれ、学校にも行かずたいへんな苦労をして、しょうゆ業を始めたが、これは失敗に終わった。そして裸一貫で小樽にやってきて自由労務者の仲間にはいり働いた。喜一郎はこうした一家がどん底のさ中にあった明治二十年十月十八日、吉次郎の二男として生まれた。しかし喜一郎はこの貧乏な家に生まれたことを『ほんとうに幸いでした。どなたよりびんぼうであったことを感謝しております』といっている。これは大の仏教信心家であった父吉次郎の教えを受けて喜一郎も信仰家として有名であるが、この仏教信心から『苦あれば楽あり』『因果応報』を信じて『苦しみを味わえばそのあときっと楽しみが訪れる』と努力を続けたことから来ているわけである。

 小樽中学第一期生として卒業した喜一郎は七師団に一年志願兵として入隊したが、これも『苦労を味わおう』ということからだった。除隊後の明治四十年、喜一郎は家業の野口商店をまかされた。当時満二十歳。いろいろな苦労を味わった喜一郎のセンスが活かされたのはこのときからである。軍隊時代のよいところをさっそく家業に応用して当時大福帳式の帳簿だったのを算用数字に切り換えた。

 昭和十一年五月発刊の茶碗谷徳次著の『人物覚書帳』は喜一郎を次のように評している。

 『思うことも現わさず、一見あたかも子羊のごとく外柔内剛の人であるが、一度事業線線上に立つときは一朝にして謄力を発揮する人である。いわば後進実業青年の師表として抑ぐにたる人物であろう』

 喜一郎は北の誉香蘭と合同酒精をよく育てあげ今日の大をなしたが、これはその近代的な経営センスにしからしむところが大きい。昭和の初めに採用した『人物の生命保健』というのもその一つ『建物の損害は金さえあればこれを復活できる。しかし人間の損失はこれを補うことができない』いわゆる建物よりも人間を重んずるという思想―鐘よりも手腕に重点を置くという新しい考え方をどの業界にも先んじて取り入れた。

 またそれより前の大正七年、好景気で大いにもうけたが、喜一郎は吉次郎○○○『おかげの受け合い』の精神から利益配分ということを考えた。そして二十一歳以上の店員を出資者として店員待遇制度の確立をはかった。次いで考えたのは知恩財団の設立。これは店員のためた金を店主と機会均等で増殖させようというものだった。こうした新しい制度を次ぎ次ぎに取り入れた喜一郎の経営感覚はまったく非凡であったと感心せざるをえないのである。

 

小樽経済百年の百人

北海タイムス社編

昭和四十年六月十六日~昭和四十年九月二日連載