飼料界の開拓者 米山精一

2026年08月30日

本道畜産振興にも一役

 『私のもの好きが身を助けてくれました』とは、畜産の総合配合飼料であまりにも有名な〝ホクリョウ〟(北海道糧食株式会社)社長米山精一の述懐。

 苦労人、精一は大正十三年生まれ、生っ粋の小樽っ子。幼くしてスケートで足をケガ、この入院、治療で小学校六年生を二年間、また中学進学も『通学不可能』ということで、公立学校の受験すらできなかった。ハイヤー通学で北海商業(現北照高)を卒業、家業の銅鉄、船具商を手伝うこと二年余。

 終戦のまぎわの二十年五月、父清作が、アサリ側に宏楽園を開店したため閉鎖。終戦を迎えて食糧事情が悪化、、所有地をたがやしたり、牛、鶏、豚、メン羊、アンゴラウサギなど小家畜の飼育に精出した。

 生来、精一は動物が大好き。『家畜が最も喜んで食べるエサは何か…』という疑問はすでにこのときから常に頭の片隅に置いて、飼育のかたわら、エサの研究に余念がなかった。使用人と交代で、毎日馬車で市内を歩き回り、エサ集めをしながらも、この疑問は片時も頭から離れなかった。

 くふうにくふうを重ねた末、作り上げた鶏のエサが、付近農家で評判になり、『ぜひわけていただきたい』と押しかけられたときに、精一の胸のうちは決まっていた。

 昭和二十四年五月、厩町に北海道糧食を設立、手配合による配合飼料と、人間用の干しウドンの製造を開始した。干しうどんは、道食糧事務所の委託製造で、干しめんが主で、飼料が従。それもそのはず、配合飼料は当時、道内ではさっぱり普及してなく、採算ベースの面で非常に不安定だった。

 始め○○ちは見向きもしなかった農家も、配合飼料の〝よさ〟を認識、さらに食生活の改善で卵、肉類が重視されてきた二十七年配合飼料一本に踏み切った。

 そして現在、工場を手宮町に移し七百馬力の配合基、十馬力から五十馬力の粉砕機五十台え据え付け、月産四千―四千五百㌧を生産、年商二十億円の実績を上げるまでに育て上げ、本道畜産振興陰の立役者、飼料業界のパイオニアとして君臨している。

 『税金だけは大いに払い、大いにもうけるべし』というのが精一のモットー。もうけることによって社会福祉にもなる―とは、社員たちに常にいっていることば。

 弱体な食肉ルートの確立をめざすため、千歳線沿線、島松ゴルフ場のすぐそばにホクリョウ畜産センターを設立、二十九万七千平方㍍に鶏十万羽、豚六千頭の飼育を計画、四十五年度で完成するが、これができ上ると年間五万羽のブロイラーを出荷することができるという。

 この七月、第一期工事が完成、成鶏三万羽を飼育、月間ブロイラー三万羽を出荷、早くも軌道に乗せているあたり、経営手腕はりっぱ。明せきな頭脳と実行力に富み、いかにもくろうにんらしく心が広い人。少壮実業家として全道に力強く羽ばたいており、小樽期待の経済人の一人といえよう。

 

小樽経済百年の百人

北海タイムス社編

昭和四十年六月十六日~昭和四十年九月二日連載