包装技術に革命 手取貞夫

2026年08月31日

〝先手必勝〟のフロンティア

 『うちの会社には、社則や社則などない』開口一番こんなことばを平気でいってのけるざっくばらんな社長だ。しかし貞夫には〝先手必勝〟の勝負度胸とそれを裏付けるち密な頭脳がある。

 小樽に本社を置く企業のなかで売り上げトップの座を占める東洋木材企業は年間五十五億円、ことしは経済不況のあおりを受け一〇㌫の上昇にとどまりそうだというが、その伸長率は『ここ当分続くだろう』という成長会社戦後発足したチッポケな木材屋が貞夫という智将をえて、手稲、山部、、東京、大阪、名古屋と全国に工場を有する一大企業に飛躍したのは、単に時代の波に乗ったというだけではかたづけられない。やはり貞夫の卓越した先見さがあってのことだ。

 学徒出陣した貞夫は、終戦の年十一月に復員、北海製罐に復職した。翌年二十五歳の若さで木製器部の営業を任せられ、東洋木材が独立会社になったときには二十八歳で取締役というスピード出世。また、三十年に『木材だけでは将来が不安、ダンボールにも着手しよう』と、多角経営の第一歩に踏み出した。

 このとき、日本では初めてダンボールのしんにSCP(バージンパルプ)を採用した。この当時ダンボールのしんはワラを原料とした黄ホールで、新製品のSCPな〇〇他の業者は相手にしなかった。それだけに『SCPを使うことは冒険だ』と反対する声が強く、これを押して貞夫は『既設の同業者を勝ち抜くには新製品の開拓使かない。これはじゅうぶん調査して自信をえたものだ』と強調、SCP専用マシンを作らせた。結果的にはこれが同社を大きく躍進させる要因となった。

 また、当時国産ダンボール機械は一分間に五十㍍の生産がやっと。アメリカの機械は一分間に百五十㍍の生産能力を有した。しかし、一台一億五千万円もするだけに採算ベースに合わず輸入はムリ。『国産で作れないものだろうか』と北海製罐の技術担当者と相談したところ、静岡の小林製作所がいいだろうということになり、共同設計でいっきに百二十㍍を生産するコルゲートマシンを完成させた。これは貞夫にとって大きなヒットだったばかりでなく、日本のダンボール業界に大きく貢献。包装革命を推進させた功労者として長く語り伝えられることだろう。

 フロンティア精神に富む貞夫は、東京、大阪、名古屋に建設した工場に柱を使わなかった。『ダンボールの工程過程には柱が一番不要だから』となにげなく語るが、当時、これを知った業界での驚きは大きかった。

 いまでこそ合理化を口にする経営者が多いが、貞夫はその先駆者だといえる。『合理化を先にした経営者が勝ちだ』率先して合理化に立ち向かうが、そこには緻密な調査があっての実行だ。

 貞夫は、ダンボールの生産に力を注いできたが、決して木材企業をなおざりにしているわけではない。石狩川下流に木材工業コンビナートを造成しようと、昨年石狩開発会社を創設、その社長となった。いまこの大きな夢を一歩一歩実現しようと立ち上がったところ。青年実業家の貞夫の前途はようようたるものがある。

小樽経済百年の百人

北海タイムス社編

昭和四十年六月十六日~昭和四十年九月二日連載