精米

2020年06月02日

CIMG8324精米会社の社屋として建てられた小樽オルゴール堂

〇越中に妻子を残し

 小樽観光は、運河に近い堺町付近から始まる。メルヘン交差点のしゃれた標識が立つ七差路交差点の一角に、木骨煉瓦造り銅板ふきルネサンス様式の小樽オルゴール堂がある。この建物を一九一二年(明治四十五年)に自前の本社として新築したのが精米会社「共成」。社長は、富山生まれの沼田喜三郎。空知管内沼田町に自らの姓名を残す開祖でもある。

 米が主食の日本人だから、米が取れない北海道に来ても米の飯を忘れられない。明治期の北海道は本州から大量の米を移入した。変質しないように、玄米で運んで消費地で精米する。開拓期の本道工業の中心が精米業だった時期、十三年(大正二年)の小樽工業生産額の六割が精米業という統計がある。

 越中の大工兼農民から、妻子を故郷に置いて単身で小樽にやって来た時は四十九歳。今と違い人生五十年の時代だから、とうにたそがれ・引退の域に入っていた。

 小樽・高島両郡の境界だったオコバチ(別称妙見)川のほとりに、精米用の水車が回っていた。冬になると凍り、夏は水がれと効率が悪かったところへ、大工気があった喜三郎は川の水を水車の上から落とす仕組みを考えた。

〇新事業で原野開拓

 それまでは流れに水車を浮かべていたのに対し、力学的に見ても合理的な重力の利用方法だった。こんな単純なことでも、発想の転換ができた喜三郎だからこそ、精米業から原野開拓請負会社という、他の人が思いも付かなかった新事業を始められた。

 明治の元勲、三条実美太政大臣が中心になった、雨竜原野五万㌶を開墾する家族農場が、実美の死で解散したのがチャンス。一八六九年(明治二年)に来道経験を持つ東本願寺の大谷光瑩伯爵を説得して、雨竜本願寺農場・委託開墾株式会社を設立した。

 富山・石川両県から農家を移住させ、生産された農作物は一手に集めて、小樽市場で売り、生活必需品も一括して小樽経由で買う。こうした奥地のハンデを克服した集団経営方式による開墾は、社長の喜三郎が先頭に立って、計画通り十年で完成する。

 開墾成功で手に入れた土地が沼田町の中心街になったので、沼田村が生まれた。

(フリーライター・本多貢)

~おたる商人の世紀 北海道新聞社編より

 

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~2014.12.18