小樽有情(昭和12年の喫茶店) 48

2016年05月05日

 2月号では、昭和12年におけるスナックやキャバレーと、当時の女給さんについて記したが、今月は、その頃の小樽の喫茶店について述べてみたい。

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 日本の喫茶店の草分けは、明治21年に東京・下谷黒門町の「可否茶館」だといわれている。明治末には、銀座や京橋の喫茶店には、北原白秋、高村光太郎、吉井勇などがよく通ったという。

 

 珈琲の香にむせびたる夕より

 夢みるひととなりにけらしな

 

 これは良しい勇が詠んだものであるが、喫茶店はカフェやレストランから分化した街の応接間であった。また、待ち合わせや商談などの情報空間でもあった。

 茶房とも呼ばれていた喫茶店は小樽も古い時代からあったが、昭和9年ころから増えて、昭和10年には全国的に隆盛期を迎え、都市文化の核として定着した。

 店の名もリラ、コマドリなど花や鳥の名前を使ったもの。ピカソ、パリなど芸術家の名前や地名を店名にしているもの、イケモトなど個人の姓を付けたもの。また、紫苑荘など余韻が残る名前が付けられたものなどがあった。

 これが地方の喫茶店の店名にも影響を与えた。そんなことを念頭において、56年前の小樽の喫茶店をさかのぼってみたい。

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 今の小樽駅付近、稲穂3丁目から稲穂2・1丁目とその向いの妙見川付近、そして花園1・2・3・4丁目にあった喫茶店を紹介したい。 新月、北海ホテル喫茶部、夢、丸一食堂(喫茶部を兼ねる)ライン、オリムピック、玉の屋喫茶部、ベビー、珈琲園、カナリヤ、千秋グリル、越治、フタバ、ニシムラ、米華堂、鈴蘭、ダリヤ、マリヤ、フロラー、ネヴオ、金と銀、クロンボ、白十字、トリオ、カールなど……それぞれが特色あるムード作りをしていた。

 夢という店は、画家の国松登さんが経営し、2階は画人が集まる裸童社のアトリエになっていた(現在の「光」喫茶店)。越治は階下の越治商店である越井治郎さんの略名で、かつて伊藤整と小林多喜二がこの喫茶店で出会っている。(現在のグランドホテル十字街斜め向かい、フタミ化粧品店階上)。米華堂は、ベーカリーを漢字にもじったものという。

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 これらの喫茶店の中には昭和12年に小樽で開催された北海道大博覧会を機会にオープンした店もある。この年に店内を改装したものが10店ある。

 これまで小樽の喫茶店では、店を白壁にするのは冒険とされていたが、博覧会会場の白いパビリオンとのつながりから、白壁改装にふみきった店もあった。

 また、小樽の喫茶店には、何気なく飾られている絵画や美術品の中に、著名人の作品があったのも特色の一つであろう。

 季節ごとに花を飾る気くばりと共に、「ハッ!」とするような美人ウエイトレスが常連客を増やしていた。一方、いい味で勝負とばかりに幾種類ものコーヒー豆を揃え、お客のニーズに応える一流の喫茶店も当時から小樽には存在していた。

IMG_0185A 喫茶店のはじめのころの音楽は、ラジオや手廻し式の蓄音機(カウンターの左)が用いられていた。当時のSPレコードも、その後LPとなり今はCDに変わってきた。手廻し式の蓄音機も電蓄になり、今は有線放送となってきたが、当時のSPレコードの音色もなつかしい。

IMG_0179B 画家の国松登さんが、夢はあなたのものと名付けて経営していた喫茶店「夢」のマッチラベル(このラベルは札幌市懐古堂・タバコ資料館提供による)。

~HISTORY PLAZA 48

小樽市史軟解 第2巻 岩坂桂二

月刊ラブおたる 平成3年11月~5年10月号連載より

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『小樽のコーヒー豆はいつも可否茶館で仕入れているけど、東京・下谷黒門町の「可否茶館」と同じ系列かな?』