イクタに生命を 大衆の好む菓子をつくる 生田象次郎
2026年08月15日

ぼうず頭、作業ズボンにオープンシャツ。
社長と言えばパリっとした背広を着込み、どかっとイスに腰かけているさまを連想させるが、象次郎からはそんな感じを受けない。むしろおやじさんといった方がいいだろう。しかしひとたび話をかわすとしめつけられるような圧迫、力がはね返ってくる。その象次郎が開口一番発したことばは『私はイクタに生命をかけている』である。
さらにことばを続ける。
『お菓子をつくるのは社会への奉仕だと思い、時代にマッチし、大衆が好むお菓子作りをしています』という。食べることは人間欲の一つで、うまいものを食べた者は満足する。満足してもらうためにがんばっているのだ。
いまでこそ〝イクタ〟のといえば〝ああキビダンゴのね〟といわれるイクタのキビダンゴ、オコシ、キャンデー、ビスケットは子供からおとなまでが知っている。というよりも口にしているお菓子を思いださせるが、これらは泥と汗から生まれたものだ。
象次郎は明治三十七年五月十日新十津川の農家に生まれた。両親が農業をあきらめて滝川で商店を開いた。十年たっても思うようにならず、再び千歳で農業を始めた。両親とともに泥まみれになって働いた。そのころから象次郎は農業を継ぐことをあきらめていた。不作に泣くよりも農産物の加工を業とすれば、いまよりは楽な生活ができると考えたからだ。
大正十三年、二十一歳の年、弟平太郎(現専務)を伴って商業の町小樽にやってきた。そして菓子屋に住み込んだ。間もなくその店は経営不振で倒産した。〝なぜ売れなかったのだろう〟当時の小樽ではお菓子を製造する業者は十数件もあった。その中で一番うまい菓子をつくらなかったからだということに感づいた象次郎は、独立して花園町西二丁目に家を借りて豆ようかんを製造した。
名の通った大会社相手に、イクタのようかんを売るのは骨が折れた。しかし、象次郎はあせらなかった。『少しでいいから、どこにも負けないうまいようかんをつくろう。』豆を固くしたり、やわらかくしたり、塩の量を少なくしたり、多く入れてみたり、余裕ができるとキビダンゴをつくった。畑にでる納付、遠足の子供たち、釣りや旅行のおやつがねらいだった。これが当たった。
奥沢町に第一、第二工場を建て、製品もオコシ、キャンデー、ビスケットをふやした。いまでも毎日欠かさず工場に足を踏み入れる。うまい菓子をつくるのは工員さんではなくて自分自身だからだそうだ。
小樽開基百年祭の記念式典で象次郎は功労者として表彰された。国保制度ができると、だれかれとなく加入の促進に奔走、協力会、連合会づくりに飛び回った。国保運営協議会副議長、連合会副会長に推され、最近つくられた住居表示整備審議会委員にも委嘱された。
『菓子づくりは私の一生の仕事、お世話になっている市のためにつくるのはこの上ない喜びです』語調はやわらかいが、そのふしぶしには課せられたことには信念を持ってやり遂げようとする〝ド根性〟がにじみでている。
(敬称略)
小樽経済百年の百人
北海タイムス社編
昭和40年6月16日~昭和40年9月2日連載
そば会席 小笠原
北海道小樽市桜2丁目17-4電話:0134-26-6471, 090-5959-6100
FAX:電話番号と同じ
E-mail:qqhx3xq9k@circus.ocn.ne.jp
営業時間:10:30~21:30
定休日:月曜日
