出来る範囲で 本間保次郎

2026年08月19日

家業を堅実に守り通す

 『いわゆる事業家ハダではない。どちらかというとおとなしすぎるぐらいまじめいっぽうの人で、父の家業を堅実に守ってきた。毛並みがよく人望もあった。』保次郎の市議時代をよく知る岩谷静衛弁護士=花園町西二ノ二八=は保次郎をこう評している。また保次郎の友人神田文五郎=嵐山在住=は『さわりのいい人で、まだ一度もおこったのをみたことがない。酒屋を天職として決してほかの事業に手を出さない堅実な生き方をしている。まあ業界内では模範的な人でしょう。シンのしっかりした人で晩年は好々爺として評判も一段と高まっている』ともいっている。

 人も知る本間酒造の二代目社長。『すべてムリをしないこと、自分のできる範囲で仕事をせんけりやいけません』これが保次郎の信条でもある。小樽で最も古い酒屋さんとして家業を守り育ててきたのは保次郎の地道な人柄によるところが大きい。

 明治二十三年十一月三日小樽市は信香町で初代賢次郎の二男としてうぶ声を上げた。初代賢次郎は慶応年間に渡道、小樽で呉服卸しを営み明治二十六年から酒造業も合わせて始めた。小樽でいま残っている酒造業者では一番古い店である。父賢次郎は越中の米を運んでおいしい酒造りに専念、今日の本間酒造の基をつくり上げた。

 保次郎は樽中(第四期生)をへて大正三年慶応法科を卒業、すぐ家に戻り酒造の見習を始めた。四年後には兄の賢次郎が呉服商売を継ぎ、保次郎は酒造を受け持った。最初は従業員十七、八人で生産は年七百石ほどだった。

 昭和十九年戦時統合で、会社は小樽合同酒造になり保次郎は専務に就任したが、同二十八年再び独立して本間酒造を経営、現在奥沢三丁目に店舗を持ち、年三千石を生産している。小樽市と後志管内がその商圏で、昭和五年酒名を『正泉』に統一して売り出している。また最近では『女性にも好まれる甘口を』というわけで『金賞』もつくった・

 昭和五年から同二十一年まで市議をつとめ、この間、その人柄をかわれて副議長の重責についたこともある。『ポツリポツリと話を運んで時の移るとともに興趣の湧いてくる妙味のある座談は天下逸品』保次郎の座談のうまさは定評がある。『容易に我執を表面に出さぬ人』だけにこれといったエピソードはないが、こうした堅実な性格が家業を着実に伸ばしてきたのだろう。

 

小樽経済百年の百人

北海タイムス社編

昭和四十年六月十六日~昭和四十年九月二日連載