自ら販売拡張に 川田稔

2026年08月23日

チームワークの指針で

 『店の繁栄は社員間のチームワークがなにより大切』と稔は時あるごとに口にする物静かであるが、小、中学校で水泳、大学でラグビーとスポーツで鍛えあげてきただけに、どこかどっしりとして一本筋がとおっている。

 稔は明治四十二年函館市内の相生町で製糖、製粉の卸し商を行なっていた川田憲太郎の長男として生まれた。その後商売の関係で家族とともに小樽市色内町六丁目に移住、なに不自由なく小樽高等商業学校、神戸商科大学と神学、昭和八年家業と関係のある日本製粉株式会社に卒業と同時に入社、四年間みっちり経営などの点について勉強したあと、同十二年父から頼まれて父親の経営する株式会社川田憲太郎商店の専務取締役に就任した。当時樺太など小樽港を基地とした沿岸貿易も活発で、川田商店から送り出す製糖、製粉もたいへんな量で稔は憲太郎の片腕となって取り引き先との交渉に奔走川田商店は隆盛を極めるとともに道内でも屈指の卸し商となった。

 店の隆盛にかかわらず人当たりのやわらかい人格者の稔は北海道小麦粉特約店卸組合理事長、同食糧営〇専務理事、食糧配給公団配給業務局長、全国食糧事業協組合連合会常務理事など役職を数々歴任、昭和二十年の敗戦とともに国内を襲った食糧難の際中央とかけあったり、アメリカ軍の幹部と交渉、主食を配給するために人一倍苦労し、現在でも主食の配給にたいし郷愁を持っている。

 敗戦とともに樺太など沿岸貿易がいっさいとまったため、川田商店の販売経路は縮小されたが、稔は沿岸貿易ばかりが商売じゃないと販売先を道内に伸ばし後志、空知地区を一手に引き受け製糖、製粉ともに少ないときでも月間百五十㌧、多いときでは二百㌧を道内に送り出している。

 昭和三十三年父親の死去とともに、川田憲太郎商店の二代目社長に就任『とくい先に信用をくずさないためには、誠実と親切でなければならない…』と社員教育に力を入れたほか、さらに販売経路を拡張するため。とくい先との交渉に自分自ら当たっている。

 また稔は小学校、中学校を通して水泳部キャプテンをしていたため水泳にはとくに力を入れ、現在小樽水泳協会の会長をしているほか市商工会議所常任議員、、小樽市の経済を動かす一人として注目を浴びている。

(敬称略)

小樽経済百年の百人

北海タイムス社編

昭和四十年六月十六日~昭和四十年九月二日連載)