定山渓道路

2015年01月22日

CIMG8742道道小樽定山渓線は定山の計画から56年たって有料道路として開通

〇青年実業家の夢が実現

 1871年(明治4年)定山和尚は、定山渓温泉のもととなる湯治場を拓くのですが、当時は交通の便も悪く経営は苦しかったようです。いろいろな人に支援を求め、札幌への道路整備に努めるのですが、その時度々訪れるのは、やはり地己の多い張碓、朝里です。そして、ここの浜はにしん漁で活気に満ちていました。定山和尚は考えました。「小樽の人が山越えで湯治にやってこれる道をつくれないか」と。

 札幌で新聞社他手広く商売する石川正蔵や小樽の実業家牧口徳太郎の援助のもと、1876年(明治9年)測量をしますが、道路開設のための資金は莫大で、2人ではとても手を出せず、実現しませんでした。

〇定山和尚が望んでいた道路

 それから56年後、この道路計画は突然復活し完成します。

 当時の小樽の青年実業家今井孝、加藤豊彦ら5名は、地崎組の息子である地崎晴次と共に、人目を引く、世間をあっと言わせる事業を考えていたようで、小樽市内にモノレールを作る計画をたてます。これが実現しないとなると、次に考えたのが、1930年(昭和5年)に工事が始まる定山渓への有料道路建設だったのです。

 晴次は勘当中の身でありながら、父の会社地崎組との交渉の末、2年2か月の工期と、約43万円という当時としてはとてつもない大金を投じて完成します。しかし、工事代金の3分の1しか支払わず、しかも株券でだったそうです。

〇有料バスが運行

 彼らは、小樽定山渓自動車道株式会社を設立し、5台のバスと2代の乗用車をアメリカから輸入。南小樽駅前を起点として一日5往復していました。定山が測量した道路に、アメリカ製のハイカラなバスが通る。定山和尚は、あの世で大喜びしたことでしょうか。

 当初軍事道路を利用していた運行ルートも、朝里十字街から文治沢までの道路改修工事により、1936年(昭和11年)国道より入るルートに変更になりました。この道路工事改修も地崎組でした。

 自社以外にも通行料を徴収していたこの道路は、戦争拡大のなかで1942年(昭和17年)閉鎖、この道路が自由に走行できるようになるのは、戦後の1955年(昭和30年)になってからの事です。

CIMG8743朝里十字街から道道1号

 

 

『この道は、モノレール構想のあった頃出来たんだ。きっと南小樽駅から潮見台、望洋台、なべこわしの坂を通って定山渓に向かったのでは?潮見台の浄水場の近くに昭和の初め頃まで競馬場もあったそうです。』

『以前、定山渓近くに住んでいた時、小樽へ夕方出かけ真夜中に帰ってきたことが何度かありました。道道1号を通って。この道怖いんです、とくに夜は。一つは、ヘアピンカーブの連続で。気を緩めることが出来ないんです。もう一つは、真っ暗な山道を一人で運転していると、なにかぞくっとすることも。』

 

気を取り直して、

CIMG8751今日もこの階段を通って、やってきました

CIMG8752暫く待っていました

CIMG8775ゴメも待っているようです

CIMG8774また、明日です