先祖の漁業を守り続け

2015年02月08日

 CIMG8791

 私は大正十一年四月、旧高島郡祝津村(現小樽市祝津三丁目)の漁業の家に生まれました。ニシン漁で栄えた村でしたが、私の家は家族も多く、貧しくもありました。

 十七才の時、小樽のとある商家の女中として奉公に出されました。先輩女中にいびられながらも三年間辛抱強く勤め上げました。家に戻ると間もなく、本人の意思をきくこともなく同じ村の漁業の家に嫁ぎました。婚家も主人の両親を始め弟五人妹二人、私を含めて十一人という大家族でした。

 この頃、太平洋戦争が激しくなり、物資が極端に不足し始めました。家族の多い家では配給の食糧もすぐ底を突き、三歳の末娘が、お腹をすかして泣きしきり、私はただただ悲しく途方に暮れていたことを今でも思い出します。

 私が嫁入りしたとき、舅は四十八才、姑は四十才の働き盛りでした。二人の働きに付いて行くのが精一杯でした。その上、三年目に夫を兵隊に取られたのです。私は姑の働きを見習いながら主人の留守を守り姑に仕えました。終戦で主人が無事に戻ってまいりました。この時ばかりは、今までの苦労も忘れ家族みんなで手を取り合って喜んだものです。

 昭和二十年代前半は、ニシンの豊漁が続きました。漁期になると、青森県や秋田県の地方から「若い衆」と言われる出かせぎの人たちが、三十人ぐらいもやってきます。普通人影もまばらな浜もこの時だけは大勢の若い衆で賑やかになりました。

 これだけ若い衆をかかえると、三度の食事作りが大変です。米に大根、ジャガイモを小さく切り刻んで混ぜ炊きあげ、味噌汁の具にはホッケのすりみダンゴを入れ、おかずもすりみを焼いたり煮ものにします。自前の物で間に合わせて出費を節約しました。

 特に「すりみ造り」は、すり鉢とすりこぎを使う手作業なので、それはそれは大変な重労働でした。その上、私は寒い日でも湯を使うことをしませんでした。ですから、手にはひび、あかぎれ、が絶えなく、膨れ上がって、強く握ると手から血が流れ出るような辛い日々が続きました。 昭和二十年後半になりますと、あれほど獲れていたニシンの姿を見ることができなくなり、ニシン漁も衰退していきました。前浜の磯で獲れたテングサ、アワビ、ウニなどだけでは大家族を養うだけの収入を得ることはできません。そこでほかの漁業に生活を求めることになりました。

 昭和三十年代に入り、祝津にもカレイを獲る「刺し網」という漁法が普及し始めました。刺し網漁は水揚げも増え、お金にもなる商売だと思い、主人に「父さんカレイの刺し網やろうや」と話を持ち掛けました。然し、踏み切るまでに何日もかかりました。それは、この漁法を始めるためには、船代、エンジン代、その他網代など相当な資金を必要とするのです。当時の漁業協同組合は、組合員に多くのお金を貸すだけの力がなかったので、総て中古品で間に合わせることになり、私のヘソクリは、中古の網代に代わってしまいました。「刺し網漁法が後の生活の足しになる」と思えば、そのくらいは何とも思いませんでした。

 春漁は、ニシンが獲れなくなった後でも、ヤリイカ、ホッケを獲る定置網を建て込みました。網は綿糸なので、水分を吸収してしまうとずっしりと重くなります。網起こしには最低でも十人ほど力を必要とします。たまたま浜の母さん達の集まりがあったとき、「ナイロンと言う化学繊維の網が出回っている」という話を聞きました。綿糸網より数倍軽く、人手も少なく、給料、歩合給を大幅に減らすことができると言うのです。私ははやる気持を押さえながら、家に小走りで駆け戻ると主人に傳えました。

 幸い主人も賛同してくれて、次の漁期に間に合うように、化繊の定置網が用意できました。考えていた通り網起こしは、殆んど家族の者で賄うことができるようになりました。

 当時女性が沖に出ることはありませんでした。しかし、網起こしの作業が家族総出となっては私も大事な一員です。沖に出る日は、すべて凪とはかぎりません。シケの日も風の日もあり、何度となく命の危険を感じることがありました。でも、決して弱音は吐かずに、辛抱強く耐えてきたのです。

 昭和二十三年、北海道大博覧会が小樽市で開かれました。この年、祝津に水族館が開館されました。周辺には土産品の売店や食堂が軒を並べました。私の家は水族館に近く、前を多くの人が通ります。

 「食堂をやったらもうかる。食堂をやりたい。」という気持ちがわき上がりました。でも、「漁業と食堂の両方は無理かな」という不安もありました。(続)

 

 

CIMG8868遠くは積丹半島

CIMG8866遠くは増毛

CIMG8869小樽 高島

 

『鰊物語』では、「鰊漁場ではやん衆という言葉は使わず、若い衆といっていた」とありました。青塚さんのお母さんも若い衆といっていたのです。この事実も知ることができました。それが、とてもうれしいのです、わたしは。

CIMG8958朝里から見た祝津