朝里と新光

2015年02月13日

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〇山の上と呼ばれていた新光

 朝里も新光も、かなり古くから住んでいらっしゃる人がいらっしゃいます。この人たちの先祖を辿ると朝里は漁師で新光は農家という人が多いようです。これも歴史の古い地区だからでしょう。

 小樽内場所請負の収入源はにしん漁で、浜のわずかな土地に、海岸線に沿って住んでいました。ですから、その上はすべて「山の上」。張碓村も朝里村も、昔は山の上という字名がありました。

 朝里村字山の上も、昔は鬱蒼とした原始林で、鹿や熊が頻繁に出没していました。現在の道道定山渓線は鹿の通り道を道路としたという事ですから、まさに獣道だったのです。この原始林も、にしん漁には欠かせない木材として切り出されていき、その後は、にしん干場と自家用野菜畑として拓けていきます。

〇山の上に青山三蔵が入植

 この山の上一帯に初めて入植したのは、1877年(明治10年)頃に入った青山三蔵という人。同じころ播磨、浜田という人も農業をするために入植。そして、開拓使へ山の上一帯の払い下げを申請します。驚いたのは漁師の人達。大事なにしん干場がなくなっては漁を続けられないので、多いにもめる事になります。結局、細く通っていた現在の国道を境として海側は漁師で、山側は農家が使用する事で落ち着きました。

〇1943年新光町誕生

 やがて、にしんは不漁が続き、漁師の人達は、かつてのにしん干場に住居を構える人も出てくるわけです。現在のように、朝里、新光と呼ばれるようになるのは、小樽市合併した3年後、1943年(昭和18年)1月の町名変更によってです。昔の話し合いの境界がちょうど町名境になっているのですから、当時の担当者は昔の争いの事をしっていたのでしょうか。

~歴史を訪ねて 朝里 再発見より

CIMG9076朝里十字街から~左側が新光、右側が朝里

 

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