会津藩士が

2015年02月15日

CIMG8846昭和51年9月

CIMG8847内田五郎 発行

新野栄次翁の文章より

 明治二年九月或る朝漁師が起きて浜を見ると沿岸に大和船即ち弁財船が、十数隻も列んでいて船という船には大小刀をたばさんだ武士が乗っているので、朝里や熊碓の住民がびっくり大さわぎにとなった。この武士達は会津藩の者で戊辰の役に敗北して謹慎していたところ、明治の政府から小樽・高島・石狩の三郡の領地に移住を命ぜられたもので、同年二回にわたって三千人も上陸したが当時は在住者でも食糧が不足がちで、大工をたのむにも賃銀より食糧を以て労賃としなければならない時代であったので、上陸その日から食糧にこまるという状態であったが、開拓使の計いで、今の勝納・若竹・熊碓・朝里に一戸当り一名乃至二、三名又は大漁業家などに五、六名も割当て保護することになった。この勝納・若竹は明治晩年頃まで海岸一本戦で片側が浜になっていた。

 その頃この会津藩士の渡辺竹八と云う人朝里に寺子屋を開いた。場所が今の郵便局西隣であった。毎日十四、五人の子供達に朝から昼まで、児童訓や習字算盤を教えられたものであったと古老の話である。この竹八先生、天然痘であばた面であったので子供達がタラバガニと称していたが、間もなく小樽の町に出て、水産税の現物取納所の隣に代書屋を開業した。これが小樽最初の代書屋であり、代言も兼ねていたから最初の弁護士でもあった。この水産税の現物取納所のあったところは今の日本銀行小樽支店の向側であった。この現物取納所とは漁業家の水揚げの二割を税金として納入し、八割だけが生産者のものとなったので、二八取引所とも呼んでいた。この竹八氏の墓は現在東小樽の墓地にある。

 また更に第二回目の会津藩士の中に居た上島川兵衛・志賀熊太郎の両氏が、小樽最初の教育功労者として忘れ得ぬ人である。いまから恰度八十年前の明治十年頃の小樽の戸数が千百十戸・人口六千百七十人であったとのことで、学令児童も従って増えたので寺子屋式教育所では収容されなくなった。そこで明治十年七月小樽郡役所では校地を量徳町に定め、建坪二百二十五坪の洋風の校舎を新築して、明治十一年十月二六日開校式、当時は開業式と云ったを挙げた。巡回の途次、黒田清隆長官も臨席されて告辞を読んだという。志賀熊太郎校長の代理は大阪師範出の浅野源蔵と云う人がこの開業式に於いて曰く。国に山河あり後志山と云う静にして動かず、郡に川あり小樽内川と云う水清く流れ遠し、地この山川の間に位し小樽という校を築く量徳と名づく、時明治十一年十月二六日落成を告ぐ云々という祝辞を喜色満胸おどらせ読んだのが、小樽の小学校教育の産声であったという。

 日本で始めて学校の制定を布かれたのは、大学・中学・小学何れも明治五年の八月だから、小樽の小学校の産声は日本の学制頒布より六年遅れた訳である。従って寺子屋式を改めて、教育所設置のため、経営着手したのが明治九年十一月にして、熊碓教育所の創設になったのが明治十年一月二十日であって、日森蔵之助が赴任教育に当った。然るに場所が稲荷神社と一所のため村内に不敬の声が叫ばれたので、明治十年十月朝里学校に合併され、通学教育所も一時閉鎖されたのであった。、、、、、。

CIMG8849朝里の沖で停泊する船