ゆきわたり

2015年03月22日

~おたるむかしむかし 下巻 越崎 宗一

月刊 おたる 昭和39年7月創刊~51年12月号連載より

 港、堺、色内町筋は昔から小樽の問屋街で、その横小路や裏通りには石造建瓦葺の巨大な倉庫が並んでいた。将小樽経済の中枢であった。明治から大正にかけてまだいまのように舗装道路にならぬ前には鉄輪の荷馬車が唯一の貨物運搬機関であったから、雨の日には道路は田圃のようにドロンコになり馬車がぬかって馬車追は難儀したものだった。御難なのは輓馬で車が進まなくなる手綱でたたかれ時によると短腹な馬子に丸太で打たれた。それでもむかったら仲々進まない。通行人も向側へ車道を横切ることが容易ではない。舶来の熊印ゴム長靴が高級店に見られたが、到底庶民の手に入るものではなかった。詩人石川啄木は日本一の悪路と折り紙をつけた。しかし一面か程までに小樽の下町通りに荷馬車が活発に物資を運搬し、小樽の街が活気に溢れていることを物語っていた。

 雪が降っても今日のように除雪車が通る訳でなく両側の店舗は自分の店の前のゆきをかき車道へ放るから、自然と車道が雪で高くなっていった。路面よりも三尺も四尺も高くふみ固められた。昔は今より多くの雪が降ったようだ。問題は雪解け頃である。三月ともなればうららかな陽ざしに雪も解け、馬糞が表面にあらわれて橇の滑りも悪くなる。同時に道路の凸凹が激しくなり水が溜まり輓馬の難渋が始まる。往々にして荷物満載の馬そりがひっくり返り、馬さえ共に倒れる。積み荷が道路一杯ひろがった。これが毎春特に下町通りに見られる小樽風景だった。

 そこで毎年四月三日の神武天皇祭の旗日が雪割り日と定められ、全市の荷馬車業者がこの日は営業を休んで鶴はしやスコップを手にして、集団で道路の堅い雪を割ったものだ。何分にも雪解けの表面馬糞が一杯たまっている道路を割ってゆくのだから馬糞も顔や身体に飛びかかるというものだ。しかし力のある馬車屋がスカッスカッと気持ちよく半氷の雪を割ってゆくのは子供心に見ていても気持ちよいものだった。ボンやり見とれていると、

 「あぶないから子供は引込んだ引込んだ」と馬車屋の親方からどなられた両側の商店の店員達も、これに加勢して後片付けを手伝いした。

 毎日織るように馬橇が通った街も、この日ばかりは雪割りの後、ヒッソリ静まりかえった。

 翌日からは割られた雪は、道路のわきに積まれまたは浜や妙見川に捨てられ、鉄輪の荷馬車が幅を利かして通るようになった。

 荷馬車は経済都市、商業都市小樽のシンボルであった。いまは殆んどトラックにとって代わられたが、荷馬車が何百台も満載して織るが如く市中や南浜街通りを往来した明治から大正にかけての小樽が尤も活気があったように思う。

 

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