青山 留吉・民治

2017年09月25日

 高島場所

 高島場所に和人が定住しはじめたのは、安政以降のこと。移住者の多くは「二八取」として鱈釣、鰊刺網などに従事していた。後に「高島」の御三家といわれた白鳥、茨木、青山の三家について述べれば白鳥喜四郎は嘉永年間(一八四八~五三)、茨木与八郎は万延元年(一八六〇)、青山留吉は安政六年(一八五九)に来住し、初めは鱈釣、鰊刺網などに従事しながら資金を貯え、漁業地を借用または買収するなどして、逐次地歩をかため、鰊建網に進出し、明治十年頃から急成長をとげ、同十九年(一八八六)には三家の建網総数は四三統に達し、村の総数の六〇%を占めるに至った。

 網の増加の過程を表に示したが、網の増加は主として赤岩から忍路境にかけての海蝕崖が発達した岩場で、漁業地としては未開の海岸であった。そこの新開が進んだのは、枠網を導入して漁獲物を本拠地の前浜まで、曳航して沖揚げすることが可能となったためである。

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 青山留吉・民治  高島郡祝津村

 留吉は天保七年(一八三六)羽後国(山形県)飽海郡比子村字青塚に嘉左衛門の第六子として生まれた。その家漁業を営むも甚だ貧し。日々漁った魚を酒田に販いで、僅かに口を糊す。安政六年(一八五九)正月、蝦夷地に渡り、高島郡祝津村寺田九兵衛の傭夫となる。居ること七ケ月斯業の利益大なるを見、一旦帰郷し、一隻の漁舟と米塩の資を借り、翌年再び祝津に来り、独立して漁業を営む。自ら魚を小樽に運んで販売し、冬は山に入って樵夫となるなどつぶさに苦難に耐えた。慶應四年(一八六八)他の一名と共同で「漁場地」を借用し、翌年之を二分して二百坪ばかりを所有して定住の根拠とした。

 青山家は、明治二十年頃、留吉の代に「行成網漁場」十五ヶ所を所有し、西川・白鳥・茨木の三家に比肩するほどの大漁業家に成長した。(出典:北海道史人名字彙)

 昭和六年現在、青山民治名で村内に一二統、他に同姓の鰊定置漁業権三統、さらに、漁況がより安定していた対岸浜益の雄冬地区に青山政吉名で五ケ統を所有し、「出張漁場」として経営していた。

  青山 民治  高島  十二統

  青山 嘉吉  高島   二統

  青山マサエ  高島   一統

  青山 政吉  浜益   五統

  註:青山マサエは青山民治の配偶者

 民治の後は長子の薫が継いだ。薫は北大水産専門部に学び、初期のスキー・ジャンパーとして著名。後に小樽市議会議員となった。

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CIMG9610より

CIMG9608祝津の前浜

CIMG6109赤岩 忍路方面