小樽の風物

2015年04月05日

 私の育った大正時代の小樽は、北洋の水産物と、石狩平野の農産物の集散地であり、かつ、豊富な埋蔵量を誇る幌内、赤平などの炭鉱地帯を控えた石炭の集散地であり、北海道随一の天然の良港であった。豊富な物産の積出港として日本でも有数の商業地として栄え、港にはいつも多くの船がていはくして、商取引は慇賑を極め、小神戸と呼ばれていた。とくに、私の生まれた大正四年は、第一次世界大戦の勝利に沸いた年である。それ以降、景気は上昇をつづけ、船成金、鉄成金の続出した時代であった。

 今でも、創立後百年を誇る小樽の有名な料亭、開陽亭には、日露国境画定会議後、宴会を行った百畳敷きの広間がある。この部屋で船成金が百円札をばらまいたとか、また、ある船成金は、小樽中の芸者五百人中の半ば二百人余を総あげして、揃いのちりめんゆかたを着せて、どんちゃん騒ぎをしたとかの話が残っている。

 文部省が高等商業学校を北海道につくろうとして候補地を探した時、小樽の商人達は設立に必要な多額の金をたちまちの中に用意して、文部省に寄贈し、ために、明治四十四年、小樽高商が設置されたときいている。それ程小樽は富裕な土地であった。小樽には豪商と言われる人が多く、小樽商人は樽僑とよばれる程すご腕で先見の明にとんでいたといわれる。

 当時の小樽の名士には、東北地方(特に会津戦争の敗北者)や、北陸地方(敗戦逃亡者の末裔)の出身者が多かった。故郷を失った人が多かったせいか、「おくに丸出し」の狭い料簡の人は嫌われたらしい。殆んどがよそ者であったので、小樽の人の性格は、開放的、進歩的で、闊達、豪放な人が多かった。

 武士階級出身者が多かったせいか、文化的水準は高く、絵画、墨蹟、陶磁器等の骨董品の売立てのせり市が多く催され、山田町には骨董品の店がたくさん並んでいた。私は七、八歳の頃から、父について美術品の売立市に行ったり、母につれられて山田町で茶道の茶碗やらでんの文筥、輪島塗の茶棚や会席膳などの買物のお伴をして、骨董品を見て廻った。

 自宅にも、よく輪島の職人が品物をみせに来たり、京呉服店が出入りしていた。年に何回か歌舞伎の大名題が廻ってきた。毎年正月には必ず家中で三枡(一枡四人席)を借り切って、金蒔絵の御重箱(母の自慢の品で、まとめると小さく一つになり、拡げると七重ぐらいになった)に御馳走を沢山つめ、ひさごにお酒を充して、総勢十人位で朝から出かけた。

 母は、非常に歌舞伎を好み、私は四、五歳位から御伴をさせられたので、意味も分からずに、袖萩や、朝顔、八重垣姫、玉藻の前などの名を知っていた。母は、よく浄瑠璃の文句を口づさむので、傍で遊びながら、私はひとりでに朝顔のサワリの「はいはい、よう問うて下さいました。もと、私は中国生まれ」とか、萩袖の「この垣一重が黒鉄の門より堅き」とか、八重垣姫の「お前の姿を絵に書かせ」などを、わけも分らずに真似したものである。上京してからは歌舞伎座へ毎月見に行くようになったが、その時、はじめて幼い頃、母の口から聞いたせりふが、どんな意味で、どんな場面に使われるのか、はっきり知るようになったのである。まさに、門前の小僧習わぬせりふを覚えたのである。

 小樽は稽古ごとが盛んであった。母は、お稽古ごとの中、、特に活花を好んだ。留春軒という免許名をもっており、小樽の公会堂で行われる池の坊流の大会では、母の活けた花に、よく金賞の紙が貼ってあった。「素直な花を活ける女」といわれていたそうである。母は、率直な人であったから、活けた花にもてらいがなかったのであろう。

 北陸出身者が多かったせいであろう。加賀宝生というように宝生流の謡曲、仕舞、小鼓も盛んで、私共三姉妹は、六歳から習わせられたが、中の妹(きく子)の他はあまり上手にならなかった。ただ、きく子は謡曲が得意で、仕舞、小鼓、太鼓、大皮、笛までものにし、自ら能を演ずるようになった。父も九十三歳の今日まで七十年間、いまだに声量豊かに謡い続けている。

 私は七歳から・・・

 ~小樽の幼き日 金子たみ子より

 

昨日、新南樽市場で発見

CIMG9769ミニカジカ、5㌢くらいかな

CIMG9770ミニタラバ

タラバガニでは、ないそうです。

CIMG9772小樽産のイカ

CIMG9771獲れはじめました