雪国の四季 (その1)

2015年04月06日

  私が育った大正時代の雪国の生活および行事を、季節をおって書いてみよう。

 正月には百人一首の歌留多とりが、盛んであった。私共の行った歌留多とりは、東京のとは異なって、百人一首の下の句を読んで、下の句を取るのである。東京の友人にそう話したら「イロハ歌留多と同じね」と笑われたが、上の句を読んで下の句を取るのを正統とすれば、私共の行ったのは傍系というのであろうか。下の句は変体仮名で書かれていて、この字を覚えるのが容易でなかった。

 私の家では、正月には必ず家族一同でこの歌留多とりが始まり、帳場の人も女中も混って、皆で紅白に分れて、歌留多の札をとりあった。子供達も小学校へ入った七、八歳頃から仲間へ入れてもらった。

 始めはただ「乙女」の「乙」の字だけを頼りに「乙女の姿しばし留めん」の句が読まれるまで札を守っており、その中にだんだんと「い」の字とか「ろ」の字とかを頼りに次々と自分の持ち札を守りつつ、向かい側の人の持ち札の中から、自分の知っている字の札を読まれる歌に合せてとっていった。はじめは一枚しかとれない者も、だんだん上手になり、お正月の終る二十日正月頃までには、かなりの腕前になるのであった。

 歌留多とりを始めてから五、六年もたって、私が十二、三歳になった頃にはなかなか強くなった。向い側の父の札を取って、天下を取ったような気分になったものである。子供だと思っていた娘が、自分の目の前で「しづ心なく花の散るらん」なる札を、すばやく取るのを見た時の父の複雑な表情を思い出して、私は今もいい気分にひたる。負けることが大嫌いな父が、娘に負けた時の心境を想像するのも楽しい思い出である。

 お正月は三カ日雑煮餅、五日が小豆がゆで、あべ川餅やおしる粉、七日が七草を入れたお雑煮。この日の夜には親族一同の新年宴会があり母は、朝早くから、手伝いや娘共を使って、御馳走づくりに大童であった。やがて、三の膳つきの豪華な膳が、広間に三十人分は並べられ、娘達はお給仕にかり出された。この時は新調の晴れ着を着せられた。この日「躾」をとるのが非常に嬉しかった。躾は新しい着物だけについているから、躾をとることは、仕立て下しを着るということを意味していたからである。

 母は、暮れの三十一日までには、父、兄、娘三人、手伝い二人、と自分のを含めると八人分の新調の着物の仕立てに夜鍋をし、さらに正月のための買物などの用事があった。また正月用の食器、(漆器や陶磁器など)の出し入れ、大掃除、おせちの用意、取引き先や親せき、知人へのお歳暮、使用人への心づけなどで、目の廻るような忙しさであった。母は、持前のゆったりした鷹揚な落ち着いた態度で、細かく気を配っていた。・・・。

 四日は初荷で、この日は縁起をかついで、自宅から馬橇で二が得意先へ運ばれていった。工場から初荷の澱粉を、二台か三台の馬橇に乗せて、馬の首に鈴をつけ、「初荷」と書いた幟をたてて、〇治 盛化学澱粉という父の会社の印絆纏を着た店員が、二、三人づつそれぞれの馬橇に分乗して、得意先の支店や、(父の得意先は殆んどが内地の大手の会社であったので)かまぼこ店へ配達に出るのであった。四日は、子供達まで朝の四時に起こされて、この初荷の出初めを見送るしきたりがあった。この日は、景気づけに御酒が振舞われ、馬方や工員、店員が皆赤い顔をして、しゃんしゃんと手打ちをして、鈴の音をチリンチリンと一層高く響かせて、雪の街へ出て行った。

 小樽は正月以降は翌年の春四月まで眠ったような街となる。雪にとざされて、あまり活発な行事はない。然し、雪にとざされて暮す人々の生活は決して容易なものではない。朝目ざめと共に、入口の雪は払って出入口の雪道を作らねばならぬ。雪をかかないと、家から外へ出られない。毎日、必ず雪が降るから、雪かきは必ず行わねばならぬ重要な日課である。次に煙突掃除。近ごろは殆んどの家で灯油をたくようになって、あまり手間をとらなくなったようであるが、以前はちょっとこれを怠ると、石炭の燃えが悪くなって、部屋中もうもうたる油煙二囲まれる。石炭の出し入れ、洗濯物の室内乾燥、雪降し、雪国に欠かせなぬこれらの仕事は、非常に労力を要するもので、暖国に住む人の思い及ばぬ苦労である。また、雪国に住む者の喜びは、冬のスポーツ、スキーやスケート、橇をすることである。

 

CIMG9539小樽幼き日 金子たみ子 より

 

CIMG97773月10日(火)に発生したJR朝里駅と銭函間の土砂崩れにより線路が埋まった場所(朝里駅より1.6キロ札幌側)~今でも復旧作業中でした

 電車はここを通る時、ゆっくり徐行しながら走っています。お客さんは、「何があったんだろう?」と、不思議がっています。