ロシア船見物

2015年04月01日

 海は四季がそれぞれに変わる。春はのどかで浅い水色。和やかで波も立たず、まさに、のたりのたりという感じである。秋になると色が段々濃くなってきて、秋の深まりとともに北風が吹き始めて海が荒れる。大きな船を一飲みにしようと怪獣が巨体をもたげて、あばれ廻っているように見える。初冬には、やませが吹き、鉛色の海面に雪が吹きつけるようになる。さらに真冬、根雪の頃となると、粉雪が終始海に吹きつけて、船は悲しげに汽笛を鳴らして行き交う。

 いつも、私の部屋から見える桟橋の突堤に立っている赤と白の灯台の灯が、冬には殊に強くなり、粉雪の吹きつけるのをはっきりと照し出した。

 春にはつばめ、冬にはかもめやうみねこが、桟橋によく群れた。釣り糸をたれる人も多く、外国の様々な色の巨船や軍艦、日本の貨物船や艀の出入りも多かった。春には季節の行事のように、外国の軍艦や巨船が入港して市民の見学を勧誘した。私共家族五人~母は船に酔うのでるすばんをしたが~も、父の艀で時折、見物に出かけた。

 思い出が鮮明なのは、大正十二年四月、私が八歳の時のことである。私共家族四人が、父の船でロシア船見物に出かけた。父の工場の増山さんという漁師出身の工場長がハシケを巧みに操って、ロシア船の傍らへつけた。小舟がゆれて、ともすれば波間に落ちそうで怖かったが、大きな船の船腹に下された鉄梯子を昇った。

 この日は母の配慮でいつも着ている着物の代りに、緑色のビロードの洋服を着、鳥の羽のついた帽子をかぶせられた。下駄は危ないというので、編み上げ靴をはいた。この日の服装はとても私の気に入った。髪もいつもおさげに結んでいたのをといて、長く両脇に垂らした。流行のオペラバッグを持って、私はすましていた。色の白いまんまるい女の子が、緑色のベルベットの服を着て、羽のついたボンネットをかぶって船に乗り込んできたのは、当時としては珍しかったらしく、私共は大歓迎をうけた。

 彼は船の中を案内してくれたが、私共は水洗の洋式トイレにびっくりし、食堂の立派さに驚き、赤い絨緞の上を靴のまま歩くのも勿体ないと思った。いつも和服に下駄の父も、その日は雪駄を履いており、絨緞の上ではそれをぬいで足袋はだしになっていた。父は、食堂で赤いブドウ酒を頂いた。「とてもおいしい」といい、家へ帰ってから「お母さん、一本つけて」と、母に注文したのを覚えている。

 私共はまた艀に乗って、波にもまれながら帰宅した。母が一日中、心配しながら待っていた。

 その後も一年に一度は外国船見物に出かけた。当時の小樽の人々は、ロシア人に親しみをもち、小樽の街にも何人かの白系ロシア人が定住していた。彼等のつくるパンはとてもおいしく、パン屋も繁昌していた。

 海の傍らの家で十余年も過したせいか、私は海が大好きである。一日中眺めていても飽きないし、どんなに忙しい年でも、一年に一度は必ず海を見たいと思う。海は、心の狭さ故に悩んだり、泣いたり、憤ったりする私に、「もっと広い心になれ、すべてを呑みこんで生きて行け」と語りかけているように思える。

~とある方が小樽の幼き日々を記憶のままに書きとどめた文章より

CIMG9624今朝の海