祖母

2015年04月15日

父方の祖母

 父方の祖母、盛ミス女は、はなはだ気品が高く、誇り高い武家娘の匂いを大正、昭和になっても持ちつづけた人であった。この匂いは、昭和十八年、九十四歳で逝くまで消えなかった。

 祖母は封建時代の伝統をそのままうけついだように、何事にも秩序、習慣を守ったので長男以外は重視しなかった。私の父のように、五男二女中の一番下というような子供は全くのミソッカスで、無視されていたようである。まさにnegligible smallというのであろう。したがって、祖母の孫十一人中、長男の一人娘「盛節子」を大切にし、他の孫は余り気にとめなかった。

 彼女は伯父達の結婚十三年目に授った盛家の大切な跡とりであり、才気煥発、ぼたんの花のような華やかな美貌と美声の持主であったから、祖母は此の孫を特にかわいがり、誇りとしていた。私が庁立小樽高女へ入学した時には、彼女は最上級生であり、学芸会のプリマドンナで、彼女の才気と美貌、美声は校内でも有名であった。

 五男の父の妻である私の母は、祖母から軽視されていたから、母は、伯母よりは気楽で、自由であったように思う。しかし、嫁は嫁で礼儀を欠いてはならないとかで、母は、月に二回は必ず祖母の好物を沢山つくり、特別のお重箱につめて、長女の私をつれて、御機嫌伺いに伺候していた。それは訪問ではなくして、まさに伺候であった。私に母は、「おばあさまのところへ、御機嫌うかがいにいくのだから、行儀よくするのですよ」と、何度もいわれ、「はい」以外はいってはいけないと堅く戒められて出かけた。・・・

 この祖母は、優しさ、暖かさ、柔らかさ、という雰囲気からは全く遠い人であったが、才気があって、厳格で、几帳面な人柄であった。墨絵や、和歌をよくした。

 兄の結婚式に列席のため、九十二歳で上京し、帝国ホテルの宴席で琴歌の一節を披露した。招待客から、「さすが会津の茅根の娘」と感嘆された。私は今も、シャキッと首すじを伸ばして、朗々と鶴亀を謡う祖母に手が痛くなる程拍手を送った日のことを忘れかねている。

CIMG9539より