祖母

2015年04月17日

母方の祖母

 母方の祖母は、文字通りの「おばあちゃん」で、私にとっては母以上の人であった。八十八歳で逝った時、私はたしか津田塾の学生であったが、わあわあ泣いて、父に、「いい年をして泣く奴があるか」と叱られたのを覚えている。

 母の兄が急死したため、祖母は急に娘である私の母と同居するようになった。出入りのの者や使用人が多く、外向きの事は一切母が指示していた私の家では、祖母が子供達の教育者であり、小学校へも祖母に連れて行かれた。祖母は能登の寺の娘であったから、非常に信仰深く毎日寺詣りに出かけた。その度に長女の私は御伴を仰せつけられた。三歳ぐらいのとても小さな女の子が、被布を着て、流行のオペラバッグを持って、小樽の街を夏は馬車、冬は馬橇で、チョコチョコとおばあちゃまの後について行く姿は、老人仲間の目に留った。色の白いまんまるい顔の女の子が暗い本堂の中で、祖母の傍にチョコンと座って、お説教を聞いている姿はひどく奇妙であったに違いない。ほんとうの私は祖母の持っている金平糖や飴玉、香煎につられていたのであったが。ただ、今も「何事もあみだ様にお任せするのだ」ということだけを奇妙に覚えている。祖母はよく、「たみちゃんは身体が弱い。人につくせばきっと幸せになれる」といい「人につくすために、一寸八分の観音様が、一丈六尺の仁王様を連れている」と話した。この話はチビの私にはひどく気に入った。人のためにつくせば、大きくなれると思ったのである。

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 幼い時の思い出で、今でもはっきり覚えているのは、たしか四歳ぐらいの時と思う。家の裏の崖に積まれていた材木の上で遊んでいた時、材木が崩れ、その間にはさまって崖下に落ちたことがあった。泣き声を聞きつけて祖母が探しに来てくれた。泣きじゃくる私をしっかりと抱きかかえて、祖母は「怪我一つなかったのは仏様のお計らいだ」と手を合わせた。祖母の頑丈な温かい手に抱かれて、更に激しく泣いたのであった。

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CIMG9539より

 

CIMG0007今年も元気に泳いでいます