日本郵船小史1~競争と創立

2015年07月21日

(一)明治維新前の北海道に於ける海運

北海道の海運は、北海道を中心とする漁業との関連に於いて発達し、開拓当所に於いて、鉄道に変わつて各漁業基地及び開拓中心地との交通を担当した。

即ち、北海道の海運は北陸地方の米、筵、叺、繩及び塩を北海道の海産物と交易のため、北陸地方と松前間を活動した「北前船」で開かれた。「北前船」の最も活潑化したのは幕末文政の頃(1816ー1820)からである。

北海道の海産物は裏日本を経て関門、阪神地方に、阪神地方の雑貨、四国の塩、北陸の米及び漁業用資材を北海道に輸送した。岩内、小樽、増毛などが北海道の主要出入港で日本海岸の鰊漁業の中心たる処であった。

裏日本航路の「北前船」は表日本航路(阪神ー江戸)の「菱垣廻船」及び「樽廻船」と並び明治まで我国の一つの海運勢力を形成したと云える。

(二)北海道開拓使設置より日本郵船会社創立までの北海道に於ける海運(明治2年ー18年)

前述の如く北海道の海運は、当初漁業基地との交易船的な民営船が主体であったが、北海道開拓に当たっては輸送の重要性から官営形態がとられ、其後郵便汽船三菱会社の進出するに及んで大企業に集約される経過を辿った。

(1)北海道開拓使附属船

 北海道開拓使は明治2年(1869年)7月に設置せられ、9月に西洋型帆船2隻(咸臨丸、昇平丸)を政府より交付されて、内地・北海道間の海運業務を開始し、翌3年汽船庚午丸(641G/Т)辛朱丸(97G/Т)を輸入して充実に努めた。明治5年7月稲川丸にて沿岸航路として森・室蘭定期航路を開設した。本航路は6年(1873年)夏に竣工した

※札幌本道の仲継として重要であった。

※(註)札幌本道とは函館より森に出て噴火湾横断の航路(森・室蘭)を仲継として新室蘭にでて胆振沿岸に並行し、白老、苫小牧を経て千歳凹地帯を縦断して札幌に至る。

 クラーク博士が Boys be anbitious と別れの辞を与えたのもこの道を去るに臨んでであった。

爾後、開拓使所有船は汽船17隻(最大は北海丸の1,100屯)西洋型帆船15隻に達した。

6年(1873年)2月函館・青森間に弘明丸(209G/T)を以って定期航路(12年6月三菱会社に譲る)8年(1875年)1月東京・函館・小樽間の毎月1回の定期航路を開始した。

(2)回漕会社、回漕取扱所、保任社、運漕社

 明治3年1月政府監督の下に「回漕会社」が、太平洋郵船会社(Pacific Mail Steamship Co.)の我国沿岸航路権を収めんとする意図を防ぐため東京に設立され、道開拓使附属船、庚午丸、咸臨丸、辛朱丸、北海丸を取扱い北海道方面の海上輸送一切を担当したが、僅一年にして解散した。政府は4年1月更に「回漕取扱所」を創立し前記回漕会社の船舶及び業務を継承せしめた。

北海道開拓使は本道の公開は危険にして民間商社が海運を経営することは困難であると考え、官費を以て保護する必要性を痛感し、6年1月榎本六兵衛に資本金10万円及び北海丸を貸与し、「保任社」を創立せしめ、海上保険並びに荷為替を行わせしめたが、7年4月に廃止した。

榎本六兵衛は保任社と別に6年1月「運漕社」を創立し保険に関係しない運輸を取扱い、8年2月迄に開拓使より11万4700円の貸与を受け船舶数隻を購入し自己所有船は勿論開拓使附属船の貨物積載及び乗客事務を取扱った。保任社廃止後は、運漕社が荷為替及び海上保険を行った。

(3)郵船汽船三菱会社の北海道進出

 明治2年7月開拓使の設置により政治の中心は函館より札幌に移ったが、依然として函館は交通、商業の中心地であった。商権は近江商人に握られていたと謂はれるが、維新後は新政府との結び付のある政商三井、三菱の財閥の手に移り始め、三菱商会は明治7年(1874年)11月東京・函館間の定期航路〔明治8年(1875年)9月15日年額1万円の運航費助成金の下附を受け命令航路となった〕を開き、8年5月鉾建てにせ店を設置した。之が日本郵船が北海道に航路を開設した濫觴となる。

同社、(8年5月より三菱汽船、8年9月郵便汽船三菱会社と改称)は11年(1878年)9月函館・根室間定期航路を開始した。12年(1879年)6月には開拓使の函館・青森航路の直接事業に代り、青函定期航路を開設せんとし開拓使に対し『函館青森間海峡ハ路離不遠モ潮汐奔流定期渡海ノ便ナク夏季ノミノ臨時航海ノ汽船アルノミ・・・・・・・今回当社浪花丸(250屯 乗客250人)ニテ定期航海ヲシ、日曜ノ外隔日双方ヨリ時刻ヲ定メ交通致サセ度、冬季ハ採算ノ見込無之応分之助成願上度』(※1)旨の補助願書を以て青函定期航路を開設した。青函連絡船の経営を日本郵船の前身三菱会社が担当した事は特記すべき事である。その船客運賃(※2)は1等2円30銭、2等1円50銭、3等1円、貨物運賃は100石に付30円であった。

※(註)1.新撰北海道史より

    2.当時の船客等級は上等、中等、並等とした。

更に、13年(1880年)9月函館・小樽間定期航路を開設し、三菱会社は北海道の主要航路を殆ど独占した。函館支店を中心として11年小樽に、12年(1879年)8月根室に出張所を設けたが、函館の宏壮なる同支店は港の一偉観であったと云われている。

小樽について若干附言すると、明治8年1月北海道開拓使が附属船玄武丸(644G/Т)を以て東京・函館・小樽の毎月1航海の定期航路を開設したことにより、小樽は商港として重要性を増してきた。

更に明治13年(1880年)9月三菱会社の函館・小樽定期航路の開設に引継き、仝年11月札幌・小樽間の鉄道敷設の完成により、小樽経由の旅客、貨物は激増し、15年11月札幌・幌内間の鉄道開通により小樽・夕張炭礦間の鉄道全通し小樽が室蘭に先んじ石炭の積出港となり北海道の重要な商港となる地位の第一歩を踏み出すに至った。三菱会社、従つて後身の日本郵船は、小樽商港の発展に当初から重要な役割を果たして居た訳である。

尚、明治12~3年の同社汽船の函館と府県諸港間の運賃は次の通りである。

IMG_0667

 (4) 北海道運輸会社及び共同運輸会社の設立

三菱会社は我国海運界のみならず、北海道主要航路を独占し対抗会社がなかった処、15年1月廃使置県により開拓附属船は大部分農商務省の管理となつたため、北海道海上輸送の前途に不安な状況を与えた。依つて明治15年(1882年)3月函館に資本金50万円の北海道運輸会社が創立せられ、官有汽船4隻西洋型帆船5隻の貸与を受けて開業した。

又之と時を同じくし仝年7月に共同運輸会社が三菱会社の我国沿岸航路の独占を抑える目的で政府被護の下に設立せられ、翌16年1月反三菱色彩を帯びた東京風帆船会社、北海道運輸会社、越中風帆船会社を合併し開業した。

共同運輸会社の開業当初の北海道航路は不定期航路で、横浜起点とする緒線は次の通りである

      函館・小樽・根室間

     函館・青森・舟川・土崎・新潟間

     函館・小樽・舟川・酒田間

横浜   函館・寿都・小樽間

     北海道紋鼈間

     神戸・馬関・加露(伯州)函館・根室間

     函館・根室・千島間

その他函館・青森間、函館・根室間及び北海道沿岸諸港間の航路がある。

開業当初の定期航路は森・室蘭間及び国後諸島間の2線であつたが、明治17年(1884年)6月政府命令により小樽・増毛間の定期航路を開始し、翌18年6月更に宗谷、礼文、利尻にまで延長した。

(5)三菱会社・共同運輸会社の競争と日本郵船会社の創立

 三菱会社と共同運輸会社との競争は16年より始まり、次第に激烈となり乗客の便はもとより、荷物の取引も容易になり、北海道本州府県との商取引は有利になつたのみならず、運賃が従来の100石当り300円であつたものが100円迄低落した。このため15年(1882年)から18年(1885年)に亘り我国を襲つた不景気に、北海道の商人及び生産者はこの不景気を乗切り利益すら蒙ることが出来た。

然し両社の競争は不景気の極にあつた18年上半期に頂点に達し、共に困憊して経営が困難になつたので、政府の慫慂により18年夏漸く両者合併の機運が起り、遂に仝年9月29日郵便汽船三菱会社と政府系共同運輸と両者合併し日本郵船株式会社が創立せられ、10月1日より営業を開始した。

CIMG9629昭和37年10月

CIMG9630旧社屋(現在小樽博物館)

CIMG9631現在社屋

CIMG7571