2018年12月05日

 時流に乗って、父の事業は発展に次ぐ発展をとげた。手狭となったので、父は住居、事務所、工場、倉庫を次々に建てた。事務所は自宅から十分程だらだら坂を下りた堺町へ、工場と倉庫はその頃(大正十二年)つくられた運河沿いの岸壁に、当時(大正十三年)としては大きな木骨石造二階建を造った。私が小学校四年生の頃、父は三十代後半であったが、小樽の澱粉・雑穀界の大将と呼ばれ、雑穀界を牛耳っておりその後澱粉王と呼ばれるようになった。

 堺町は住宅のある山之上町からだらだら坂を下って入船川を渡った向こう側の町で、大通りをはさんで両側に事務所や問屋がひしめきあっていた。ここには小樽の有名な繊維問屋、水産物産問屋、農産物の問屋が並び、その先が稲穂町、色内町の銀行街で、官庁の出張所や、都市銀行の支店が競り合っていた。日本銀行の小樽支店も威風堂々とした重厚な建物を誇っていた。ほとんどの都市銀行の支店が並び、財閥商社の支店や大手郵船会社の支店が並立しており、自ずから、活発な商況を物語っていた(しかし、終戦後の長い間、ソ連との貿易が不可能となり、かてて、加えて、流通機構の関係で、農産物や水産物の集散地としての力を釧路や根室に奪われ、炭鉱もまたさびれた。現在、小樽はその使命を終えたかのように、寂しい街となってしまった)。

 銀行街に隣接した桟橋沿いに運河があり、運河沿いに木骨石造作りの倉庫街が並んでいた。これらの大きな倉庫には、内地―北海道では本州の事をこう呼ぶー向けや、ロシア、中南米などへ輸出される雑穀類(豆類やとうもろこし等)、澱粉、小麦粉などの農産物や、塩鮭、塩鰊、数の子、鱈子、鯣、昆布、などの水産物が山積みされていた。また道奥と呼ばれる、根室、釧路、稚内から貨車で運ばれてくるこれらの海の幸、山の幸以外に、炭鉱から送られて来る石炭が倉庫に保管され、それらが埠頭の桟橋に横づけされた汽船に積みこまれ、また沖に停泊中のより大きな船へと艀で積出されて行く光景は、まことに新々賑々しく、勇ましい活況を呈していた。

 馬鈴薯から製成された一袋四十キロ入りの澱粉が、やがて船に積みこまれて行くのを待って、父の倉庫に何万袋も積み上げられているのを眺めたり、会社の製品が内地や外国へ汽船で運ばれて行くのを、自分の部屋から双眼鏡でみているのは、とても楽しいことであった。

 私が父を想う度に必ず目に浮かぶ光景がある。

 昭和二年の晩秋のことであった。

 父は、当時三十九歳の働き盛りであり、兄は十四歳、私は十二歳であった。いつも寡黙で、仕事の話など子供に聞かせたことのない父が、その日は非常に機嫌がよく、今日は北日本の巨船が父の五千トンの澱粉を積んで、南米へ向けて小樽港を出港していく日であり、それを見届けるのだといって、事務所を休んで、海の見える奥の間で、朝八時頃から、双眼鏡を目にあてていた。当時は天気予報などはなく、天候のことなど一切わからず、全くの神頼みであったが、いわゆる「やませ」の吹く頃に当っていたので、母は祖母と共に、海が荒れないように、風が吹かないようにと、仏様に御供物を供えて祈願していた。

 しかし、母達の願いにもかかわらず、風は段々強くなり、大浪が立ってきた。

 この分では、父の積出し貨物の出港時刻である午前十時頃は、台風の真最中になりそうである。

 父は電話で色々奔走していたようであったが、もう出港停止は間に合わないらしかった。父は身じろぎもせず、双眼鏡を目にあてつづけていた。

 黄色の地に赤で「北日本」と書かれたマストを持つ巨船が浪にもまれている様子は、裸眼でもよく見えた。浪は荒れ狂う怪獣のように巨体をもたげて、船を一飲みにしようとしているようであった。船は大浪に奔弄されて、突風にもみぬかれている奴凧のように、悲しげな、うめき声にも似た汽笛を鳴らしながら、懸命に巨浪を避けているようであった。

 そのうちに、父は「アッ」と、小さく鋭く叫んで双眼鏡を落とした。兄がその双眼鏡をとりあげて目に当て、大きく叫んだ。「船が沈んだ」「船が沈んだ」

 一瞬、家族一同の心に苦痛が走った。船が沈んだ。父の荷はどうなるのであろう。澱粉は海水に浸かっただけで、もう役に立たなくなると聞いている。私共一同は、皆黙ってしまった。

 黙りつづけていた父が、「心配しなくてもいいよ。お父さんがいるからね」といい、「大丈夫だよ」と、母の肩をトンと叩いて、事務所へ出かけて行った。以来、私は「男」という言葉とともに、必ずこの光景を想い出す。

CIMG9539より

~2014.4.20~