蝦夷の大臣 藤山

2015年04月29日

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 小樽でも明治十三年『諸物価を均一にし、人民に広く商況をしらしめんがため』に相場会所が、明治十六年には会員数十人を擁する興商会が『取引上の紛擾を和解し、商業上の質疑に応答すること』を目的として設立される。そして明治十八年、同業者十二人によって結成された問屋組合は『内外通商の便利を謀り、営業上の弊害を改め、同業者の福利を増進する目的』とはっきりうたっていた。

 当時としてはフレッシュなこの一連の方策を演出したリーダーの一人が藤山要吉。

 そのころ小樽では続々と“二代目”が誕生していた。それは従来の商法を一変した。“鉄道の出現に”促された世代交代とみられなくもない。

 

 要吉が先代重蔵から回船問屋を継いだのもちょうどその時期だったが、和船二隻を買い込んで始めた回漕業が鉄道敷設とタイミングがぴったり。

 あとは彼の持ち船が和船から帆船へ、帆船から汽船へと変わるごとに事業はとんとん拍子に拡大し、海運業をはじめ海産問屋、銀行、農場経営などで一代の“藤山財閥”を築く。

 しばしば出かけた東京でも、その豪遊ぶりは

『蝦夷の大臣、吉原の大門を閉づる』

 とまでいわれた。が、これはだいぶのちの話。

 要吉は生家が秋田の元佐竹藩御用油商。維新のどさくさのなかから、野心をいだいて一人北海道に渡り、やがて小樽で重蔵に見込まれ、藤山家の養子になった。

 彼を養子にしたわけを尋ねた友人に、重蔵は

『あの凡ならざる風貌じゃ』

 と答えた。明治六年、要吉が二十二歳のときのこと。

 当時の要吉は“蝦夷の大臣”どころか、まだやっと経済界に“出仕”がかなったところだったろう。

 だが、この『凡ならざる風貌』の青年実業家のデビューは、本州資本の進出とともに激化した荒っぽい植民地商法のなかで徐々に力をつけ出した新しい地元資本家の台頭の姿でもあった。

~北海道百年 小樽関係抜粋より

 

CIMG0134こざくら公園の桜は

CIMG0135七分咲き