玄關先に大福帳 小樽銀行街の今昔 五

2021年02月15日

CIMG0040寫真上は明治四十二年當時の北海道銀行(二軒長屋の内向つて左側)でこの二戸を潰して建てたのが第一銀行だつた、

CIMG0041現在の銀行街

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 十年一昔と云ふから五昔なら五十年だ、考へると永いやうではあるが短かい明治二十四五年の小樽も文化の流入に始まつて資本主義的姿への早變りも當然過ぎた必然の現象であるかもしれない。だが質朴であつた當時を想ひ起す市民(古老)小樽を見捨てた人々には突端味たつぷりな現實に過去の生命が微動し、忘れ難いものがあると嘆時足り又は家督二代目三代目が生粋の“小樽ッ子”の鼻息などで到底想像だもつかぬ事柄が殘されてゐる。

地帯變遷のピカ一、銀行街がそれだ、日清の戦火たけなはならんとしてゐた時代は體裁のよい農村道路(第一防火線)を境に同地點色内町七丁目附き一帯は畑の耕作が始まつて春先鰊乾場に利用された東八丁目妙見川を境にしたヶ所は小山で雑木まばらに雑草又實を結び家屋は『船改め所』と區裁判所(日本銀行の位置)外二、三軒が野草と丈くらべをしてゐたが現勢に先鞭をつけた北海道商業銀行(三菱銀行の位置)の格子窓づきは仲々粋な姿態だつた、其向ひに小樽郵便局がささやかな、佇住まひをし軒を並べる家々はバラック建の簡易的なもので農村一部落の孤影を護つてゐたのは事實であろう、明治三十八年日露戦大勝利の祝賀に酔うた際、色内、手宮に延びた大火の後に一躍商店街のおもかげを見せ繁華の中心となつた

 此處に抜目かつた現三菱銀行が小樽最初の本建築でデビューした地盤は砂地のため土盛りで基礎を堅固に着工したが住民は驚異の目をみはり場所が場所だけに地震があつたら土中に沒して仕舞うふと蔭で心配したといふのも發展途上に殘された、そしてほがらかなエピソードであるその後類は友を呼び第一防火線から海岸通り十字街は近代建築の勢揃ひで堅めた、これが小樽の偉觀、本道、樺太、金融界の地軸、銀行街である未だにさッ爽と附近をへえ睨する姿は縦、横に伸びる市の形態に反比してここばかりは空へ、宇宙へ、伸びてゐる、“俺らは外國の街だと思つただヨ”おどける田舎の爺さんの言葉も満更でもない。

~小樽今昔ものがたり(上) 変る地帯 五 昭和十年十二月より

~2015.10.15