藤山 要吉  小樽市

2020年05月06日

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 要吉(一八五一~一九三六)は嘉永四年(一八五一)秋田生まれ、慶応三年(一八六七)雄飛の志を胸に松前に渡り、回船問屋に雇われたが、北海道の開拓は、札幌を中心に発展すると判断し、明治五年(一八七二)に小樽に移り海産肥料問屋藤山家に手代として入り、請われて養子となる。養父の没後藤山家の家督を嗣いだ。

 明治二〇年(一八八七)要吉は、露領サガレン島の漁業視察の帰途稚内に立寄り、この地の将来性に嘱目し、翌二一年に稚内字シルコマナイに漁場を開いた。その後はここを元場として次々と漁場をひろげ紋別、常呂、斜里におよんだ。明治三〇年(一八九七)ころの漁場の数は、宗谷管内だけで、鰊四五、鮭三ヶ所を数えた。(出典:稚内百年史)

 要吉は次々と持ち船を増やして、離島をはじめ天塩、宗谷、北見沿岸の航路に配した。第一次欧州大戦の傭船ブームに際しては巨額の利益をあげて産をなした。要吉の事業は漁業・海運に止まらず、大農場の開設、炭鉱、倉庫、鐵工所、銀行など経済活動は広範囲に及んだ。小樽公園には市政に対する要吉の効をを称えて、胸像がたてられている。(時田健太郎氏よりの聞きとり)

 昭和六年には稚内および宗谷に鰊定置漁業七統を経営していた。明治中期における藤山要吉の持船は左表の通りであった。

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~ニシン漁家列伝 小樽関係抜粋より

『稚内字シルコマナイ 恵比須? ニチロの工場があった浜?

それとも、西稚内の浜?』

 

CIMG0144石垣の上の見事な桜

CIMG0145浄應寺

 

CIMG0150花園橋の桜は

CIMG0151花吹雪も

ここまで来たら、やはり

CIMG0153この景色を

CIMG0155水天宮は連休中が見ごろかな

~2015.4.30