世相の流れの中にみせた小樽の一面~藤山一郎さん

2015年05月24日

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~大正七年の梁川通りである。昔この辺りは榎本武揚の土地で、武揚の号「梁川(りょうせん)」から由来されている。いまのセントラル都通りであり、別に電気館通りとも呼ばれる。中央に見える高い建物は実演と映画で長年にわたり親しまれた電気館である。この通りにはこの他に中央座、富士館、コトセ、テアトルダイヤ、文化劇場、にっかつ劇場などがあったが今はひとつもない。

 

昭和11年、大ヒットした藤山一郎さんの「東京ラプソディ」の新曲発表会は小樽がスタートだという。それは今から12年前の冬のこと。小樽国際ホテルのレストランで来樽した藤山さんと一緒に会食したことがある。同席したのは福田和歌子さん(主として戦前に「花暦の歌」などで人気トップ級の松平晃さんの娘さん)と私であった。

 「小樽はなつかしいなあー。東京ラプソディの発表会の時の思い出があるんですよ。」と窓辺に立ちながら藤山さんは話をしてくれた。

 小樽駅から近かった映画館というから会場は中央座か電気館であろう。この頃は興業側によっては会場に外からピアノを持ち入れることもあった。リハーサルでそのピアノを弾いてみると、一つのキィの音が出ないのである。

 側にいた興行側のイキのいいお兄さんにそのことを話すと「これだけたくさんキィがあるんだから、音が一つくらい出なくたってプロなら弾けるだろう」、「ところであんた花札をやるかい」「もちろんやるさ。腕前は相当なもんだ」、「それなら一枚欠けていても勝負はできるんだろうな」。男は「う~ん」と言って黙ってしまった。

 それから4時間後、その男はどこでどうして調達したのかわからないが、ステージには完璧なピアノが用意されていた。そしてこの新曲発表会は盛大裡に成功したのである。

 あのときから、もう50年以上の歳月が流れている。国際ホテルのレストランから見おろす夕暮れの小樽の街並みは、灯りがしんしんと降る雪の舞いに映えていた。それを眺めながら「もし、あの時の男がいまもこの街にいたらお礼を言いたいですよ」と藤山さんは、福田さんと私に語ってくれたのである。

 今も元気な藤山一郎さんは、この東京ラプソディという歌を生涯歌い続けるであろうし、これからも残っていく歌だと思う。そこにも小樽がある。

   ×   ×   ×

 いまはステージ専門のホールが各地にでき、リサイタルなどは設備の完備したところで開かれているが、昭和30年代頃までは、その多くは映画館のステージを使っていたのである。

 戦前、戦後は「実演」あるいは「映画と実演」と言い、その後は「映画とアトラクション」という表現になったが、これもなつかしいことばになってしまった今日である。

 たとえば、昭和20年(終戦の年)の1月の中央座で開かれた実演の一つを原文のまま紹介すると『皆様の御熱望に應えて樽都のみの実演。高勢寶乘一座。8日より3日間、昼夜3回通し興業。同時公演は舞踊石井みどり。楽団新女宛』とある。

 当時の中央座といえば、松竹座と並んで2階にも客席のある大きな劇場である。

 表通りから裏の静屋通りまである建物で楽屋も広く、大道具も使う歌舞伎などもできる立派なものであった。

 そこの大きな劇場に1日3回の3日間、計9回の実演を満員にするだけの時代だったのである。

 いまのステージはマイクも複数となり、拾った音を調整するいわゆるミキシングで効果的な音をつくり出すことも日常的になっている。また音響と共に照明効果を加えるからステージはすべて一流にみえる時代を迎えている。

 極端にいえば、作曲する人も歌う人も楽譜を読めなくても、テープで作曲したり歌をマスターすることができ、そのため楽しさの参加、層の厚さに拡大がみられるが、昔はマイクなし、あるいは1本のマイクで勝負したものである。

 更におどろくことは、終戦の年8月から2ヵ月より過ぎていないあの混乱期にステージの面々は熱気をみせ、また市民もそれを求めて、どこの劇場も列をつくる満員が続いたのである。

 この年の10月から小樽は札幌と共に、市川団四郎と曽我廼勝蝶合同一座、国民座の上野妻二郎劇団。前澤稲子劇団。深美義雄劇団。藤原亮子・佐藤正夫と東京室内楽団。東京少女歌劇。吉田末男とその楽団。水島麗子。深見千三郎。中原雅夫。朱里みさを(あけみの母)。アクロバットの小林姉妹。女性だけの白樺楽団。北の星など地元のバンドの実演が続いたのである。

 インスタントラーメンができる前の世相の中にも、明日に続く小樽の脈があったのではなかろうか。

~小樽市史軟解 第1巻 岩坂 桂二

月刊ラブおたる 平成元年5月~3年10月号連載より

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