写真が語る大正時代のある一日~渡橋式

2015年06月17日

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 大正12年8月5日、本市花園橋の渡橋式が行われた(渡初式ともいう)。

 翌日、小樽新聞の見出しは「人波を打つ花園橋の渡橋式」として、その様子を全道に報じているが、当時の活字は現在使われていない漢字が多いため、一部を新漢字とひらがな改めたので、要旨として見ていただきたい。

 『小樽市花園橋の渡橋式は、昨日午前11時に挙行された。

 この日の観衆は一万余に達し、橋の付近はもちろん公園通りから水天宮に通じる道路の両側は、人の首が鈴なりになって非常の混雑であった。

 水天宮多賀神社に集合した5組の夫婦は、奥野吉造氏の猿田彦を先頭に、以下長官代理名井勅使技師、飯田市長代理、鉄道局長代理、公職者、新聞記者及び水浅黄五紋の袴を着した花園、山田両町代表の高齢者がぞろぞろ神社の急坂を下った。

 橋半ばまで来ると、一同そこに整列して玉串棒尊。続いて順次橋を一周し公会堂に繰込んで盛んな宴会を開き、散会したのは午後1時過ぎであった・・・』。

 また小池信繁著の「花園町史」にも文章はないが、この橋渡りの夫婦の写真を紹介している。

 小樽が区制から市制になったのは前年8月である。この花園橋は鉄道の函館本線、手宮線に架けられた陸橋であるが、同年には運河の埋め立て工事が完成し、いくつもの橋ができたので、まさに橋の年であった。

 それにしても水天宮の高台から小樽公園にある公会堂までの沿道に一万人の市民が集まったとはおどろきである。真夏のため日射病で倒れた人もいたという。

 花園という町名が付けられたのは明治17年で、他町と比べるとそんなに古くはない。

 以前は原野と高地であったこの地域は小樽の中心街に発展したのである。水天宮山19世紀の安政年間に水天宮を祀ることによって、この称がある歴史の長いもの。そしてこの花園橋が完成する2ヶ月前の6月に神社は村社に昇格した。

 市制になっての初代市長は佐柳藤太氏であったが、就任がこの年の8月16日なのでこの日は市長代理が出席したものと思われる。

 式典に出席したメンバーの中で複数の夫婦代表が、揃って橋の渡初をしたことは今の時代なら別として、当時の同伴には一つの“先端”を感じる。

 また、橋の上になびく菊の紋章と錨の旗。シルクハットやカンカン帽、軍服、子どものカスリ着物等にも、大正という時代の表現が見られるのではなかろうか。

 橋の両側にある大きな木造家屋の造形も良いし、石垣や樹木の深い緑にも感心する。

 この頃の映画は「島の女」「祭の夜」「船頭小唄」「水藻の花」など哀愁に満ちたものが多く、その主題歌もよく歌われた時代でもあった。

 「どうせ二人はこの世では、花の咲かない枯れすすき」とこの花園橋のたもとで口ずさんだ男。「人も泣かせて我身さへはかない恋に泣きぬれし 妾(わた)しや悲しい旅芸者 やがて切れます三の糸」と橋の下をみつめる女。宵の橋を渡る粋な男。一つの実りを祈願して神社に向う女。

 高級住宅、料亭等と花園繁華街を結ぶこの橋にはカーペット模様のようにいろいろな人が渡ったことだろう。

 戦後、この橋の右上側に小さな飲食店がいくつもあった。水天をもじって人々はこれを酔天横丁(すいてんよこちょう)と呼んだ。

 安くて、店のおじさん、おばさんも人情味があった。「もう駄目。今日は家に帰った方がいいよ。」と言われた人も多くいたであろう。近くに交番があるので一層安心して飲めるのか、私の友だちもよくこの橋の上でそれこそ酔転(すいてん)したものである。

 この横丁付近も今は大きなマンションに変っている。しかし、この花園橋は時代と、人の出会い、ゆきずりをみつめながら風格は今も変っていない。

~小樽市史軟解 第1巻 岩坂 桂二

月刊ラブおたる 平成元年5月~3年10月号連載より

 

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