心のレトロ・イン小樽~○○さん

2015年05月31日

 昔の小樽には、道路わきにライオンの顔から水が出る水道栓があり、家で使う水は外から運んだ家庭もあった。井戸端会議ならぬ水道端会議が行われたり、子供が手伝いの一つとして、夏も冬も四季を通して家に水を運んだ。

 手伝いの後、子供達は山へ海へと遠くまで遊びに行く。暗くなるとか家に帰る方向がわからなくなることもある。そんな時に小樽には方向の目安になる大きな電飾文字があった。

 稲穂町から長橋や手宮に向かう人は、色内小学校横の荒巻山にあった「フルヤのキャラメル」と書いた電飾文字と、その左手の山にあった∧カみその文字。

 花園町から南に向かう人は、潮見台の山にあった化粧品の「レートクレーム」という電飾文字があった。街全体が暗かったので、これらの文字はひときわ目立ったが、その時代としてはスケールの大きなものだった。

 商都だけあって店舗の地域性にも、いま思うと感心するものが多い。自分の住んでいる所から一キロメートル以内には何の店というものがあった。

 おふろ屋さんは何メートル、肉屋さんより八百屋(やおや)さんがすこし近というように……。

 映画館の通りには、南京豆屋さん、お菓子屋さん、おしるこ屋さん、レコード屋さんなど映画館に出入りする人のために便利な店が並んでいた。

 旦那(だんな)様が来たので、今日の食事は何にしよう……とか、習いごとの多い地域には、うなぎ屋さん、おそば屋さんがあって出前で賑わった。髪結(かみゆい)屋さん、糸屋さんもその近くにあったものだ。

 鉄道、郵政、工場など多くの職場の人たちが通う所には、それぞれお得意さんの店が並び一つの街並みをつくっていた。

 戦争中には、軍隊や作業所の人たちが大勢集まる近くの店は、ある時間になると大変な賑わいをみせた。

 むかし、これらの店を〇〇屋さんと「さん付け」で呼んだ。宿屋さん、酒屋さん、トーフ屋さん、下駄(げた)屋さん、写真屋さん、一銭店屋さん……。

 また 〇井 さんというように屋号で店の名を呼んでいたが、今でもその言い方が残っている店もある。

店以外に「〇〇はいかがですか」と街を呼び歩いて商売する職種もたくさんあった。春近くなると金魚屋さんの呼び声、夏になると涼を運ぶ風鈴屋さんの呼び声など風情を呈してくれた。

 明治、大正、昭和、平成と時代は移り変わった。住宅事情や生活様式あるいは商品流通の変化によって店舗の姿も変容していくのは当然だと思う。しかし、お客さんと店の人とのコミュニケーションの大事さは変わらないはずだ。そうでなければ自動販売機と同じになってしまう。

 「ありがとう」の下に「さん」をつけて「ありがとうさん」と小樽の店の人は言った。文法上それが正しいかどうかは別として、一つの心の表れと思う。次頁の写真は、それぞれが何かを語りかけているような気がする。

 

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区制(大正11年以前)の頃、現在の小樽駅前通りにあった入江商店。屋根の看板には、洋酒、罐詰、煙草、菓子、食パン、雑貨と書いてある。

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蘭島の海水浴場は昔から全道的にも有名であったが、当時の後藤旅館は大勢の人で賑わった。2階の看板には「浴客御休所」と書いてある。

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明治31年に設立された小樽集鱗株式会社(現在の漁業協同組合地方卸市場~色内3-6)の賑わい。

魚を背負う「もっこ」や天秤棒(てんびんぼう)をかついで魚を運ぶ姿もみられる。市民は集鱗社を略して社(しゃ)と呼んでいた。(大正末期~昭和初期の写真と思われる。)

~小樽市史軟解 第1巻 岩坂 桂二

月刊ラブおたる 平成元年5月~3年10月号連載より

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