海にふぐ山にわらび

2015年06月02日

 ふしぎなような話であるが、最高の美食はまったく味が分からぬ。しかし、そこに無量の魅力が潜んでいる。日本の食品中でなにが一番美食であるかと問う人があるなら、私は言下に答えて、それはふぐではあるまいか、といいたい。東京でこそほとんどふぐを食う機会がないが、徳島、下の関、出雲あたりに住んで、冬から早春の候にかけて、毎日のように、ふぐを食うことのできる人を私は真にうらやましく思う。

 去る一月、私は陶土の採取のために九州唐津へ、そして天然のすっぽんの研究のために柳川へ行った。その帰途、ちょうど下の関の大吉でふぐを食うことができた。例によってなんの味もないようであったが、やはり、ふしぎな魅力を持っていた。白味噌の汁加減はあまり感心しなかったがそこはふぐの助けである。決していやではなかった。

 翌朝、眼が覚めるが早いか、もうふぐが食いたいと思ったが、都合で広島へ出た。広島といえば、おのずと生がきを試みねばなるまい。生がきも日頃美味いものであるとしていたにもかかわらず、ふぐを食べた翌朝の口には、とうてい問題ではなかった。いかに生がきに満幅の好意を傾けて、食卓の上で、剥いては食い、割っては食おうとも、その味は遂に舌端だけのものであって、人の心魂に味到する底のものではなかった。そこで夜を待って、ふぐを「ちり」にして味わい抜いた。

 そのふぐの味を、うなぎの蒲焼きの美味さ、まながつおの味噌漬けの美味さ、まぐろの握りずしの美味さなどに比較しては、まったく味なきに等しいものであった。最初、びくびくものでふぐを食べた人たちがすぐにもう、「こんな美味いものを食べないという話がどこにあろうか」などというのも、実際、無理はないのである。

 すっぽんも美味いものであるが、このふぐに較べては、味があるだけに悲しいかな一段下である。否、その味が味として人に分るから、まだそれは、ほんとうの味ではないのである。すなわち、無作為の作、無味の味とでもいおうか、その味そのものが、底知れず深く調和が取れて、しかも、その背後に無限の展開性をもっているものでなければ、真実の美味ではなさそうである。

 私は海から最高の美食の対象としてふぐを挙げることをためらわなかった。それでは山からはなにをーということになるだろうが、差し当たってわたしはわらびといいたい。わらびはもちろん取りたてでなければいけない。型の如くゆでて灰汁を抜き、酢醤油で食う。これが実に無味の味で、味覚の器官を最高度まで働かせねば止まないのである。

 海にふぐ、山にわらび、この二つ、実に日本の最高美食としての好一対であろう。中国でやかましい燕巣の料理、すなわち、海燕の巣なるものも、日本のところてんを水に浸したようなもので、別に味はないが、これがなくては中国料理にその魂が抜けるという。燕巣のもつふしぎな魅力、それが次第に類を求めては、ふかのひれとなり、銀耳となるであろう。日本と中国、その人間が求めて止まない味覚の窮極性というようなものは、これらの最高美食の対象そのものが示唆するように、そこになんとなく全一的な完了味を、その本来の味わいとするのではなかろうか。美食感覚へのこのすこしばかりの実証。(昭和六年)

~魯山人著作集 料理論集より