あのころの山 (赤岩山 その2)

2015年06月28日

 

 戦前の山行三分の二の時間が、赤岩山の岩場にあった私は、いま思うに、当時の生活環境が金と時間にめぐまれなかったからの一語につきる。身近な日帰りのできる赤岩山は交通費をかけないですんだ。このごろは誰もが利用するバスはあったが、代金三十銭で、大衆たばこバット七銭、もりそば十銭のころ薄給の小遣銭ひと月分の一割に当り、利用など思いもよらなかった。赤岩山とは反対側の場末に住む私は、およそ六㎞の峠まで朝早く家を出て歩き、日が暮れてから帰りついた。九時をすぎることがあり、母をよく心配させた。

 しかし、時間をかけた割に技術は少しも進んでいなかった。東京の好日山荘から取寄せるハーケンは一本三十銭、カラビナーは一円五〇銭もした。鍛冶屋で作らせてもハーケンは五銭でそう使えるものではない。道具と相まって進歩した今の岩登術は、私には驚異である。

 アンナブルナが登られたころ、よくヒマラヤの勢かは国力の反映だといわれた。文化スポーツに及ばす経済力、そうしてこの北海道の小さな山を登るにも、お金に支配されることのいかに大きいことか、今の岳人はめぐまれ、うらやましいと思わずにいられない。

IMG_0220w1ドリョク岩 一九三四(昭和九)年ころの西面

~その後稜線は大きく崩壊した。左カンテが2ピッチのクラック。中島君と組んでの登攀、二人の小さな誇りであった。~

 西赤岩山、三つの岩塔

 余市のローソク岩の見える海が黄金にかがやき、積丹の山脈に夕日が落ちるまで登りつづけた岩塔群。よき仲間、中島信次、伽賀三郎が学生時代のこと……ー山のアルバムよりー

 三つの岩塔の名称は、戦後、山岳連盟の前身である日本山岳会支部の大会が一九五〇(昭和二十五)年に赤岩山で行われたときの、パンフレットを作ったときの、便宜上与えたもので、赤黄のガレ、東赤岩山の岩をEで、西をwで記号にしたのもこのときからである。w1をドリョク岩、w2をベルギー岩、w3をガッカリ岩といまも呼ばれるのはARCCのメンバーが、岩登りをはじめたころからの愛称である。このほかw4耳岩、w5ムガーなど、戦後にはマンモス、ドラゴンなども生まれている。三つの岩塔は西壁とともに、西赤岩山の代表される岩場である。

 岩とガレ 

 岩は慎重に、ガレは大胆に ー山のアルバムよりー

 これはリーダーSのスローガンでもあった。

 峠から草をかぶる道を西赤岩山へ登りきって平らに出ると、海の方へ笹を分けて一〇〇mほどで、青い海をバックに赤い岩塔群が眼下に展開する。黄褐色の安山岩なのだが、海との対比で本当に赤く感じる。はじめて私がここを訪れたときである。休むのかと思ったら仲間たちが、草つきから一m下のガレに飛びおりた。砂礫を散らしてグリセード。「何をしているか。早く来い」と、下から振り返るSの叱咤。恐るおそる下って、よちよちとガレを伝い、みんなのいるドリョク岩にたどりつく。ここも落ちついていられなかったが、この岩の側面の懸垂をさせられて度胸が座った。それから三点確保の練習である。

 その後、この岩を根拠にしてガレを走ってw2ベルギー岩にいったりして練習を重ねた。帰りはきまってガレを下って海岸に出た。走って汗だくで下り、誰でも一度はスリップしてズボンを裂き、尻の皮をむいたり、青いアザをつくったりした。

 皇帝の岩 アルベール(w2ベルギー岩)

 側面から廻りこんで登るルートをつけたころ、ベルギー皇帝アルベールが岩登中墜死した。新聞報道を見て、僕等は弔意をこめてこの岩を皇帝の名にしようといひあったが、アルベールが分らぬままにベルギーで呼ぶやうになってしまった。本当の名はアルベール。この方がいいのだが……。ー山のアルバムよりー

IMG_0221北大ノルマルートw1耳岩から見たw2ベルギー岩南面

~レンズを半ば防いだ異様の物体は何か?当時はケースなどない写真機であった。頂上の岩がいまはない。~

 頂上に一㍍たらずの四角な岩がのっかっていた。確保用にし、はじめての者が恐怖心を落ちつかせてくれる岩であったのに、いつのころからか無くなっている。一九六〇(昭三五)年ころのようである。

IMG_0222北大ノルマルートw1耳岩から見たw2ベルギー岩南面確保一原、クライマー伽賀(遠藤正夫氏撮影)

CIMG0772真中がベルギー岩?