あのころの山 (赤岩山 その4)

2015年07月12日

 懸垂

 懸垂は技術よりも精神である。岩登りの初歩は懸垂で肝玉を練る。ー山のアルバムよりー

IMG_0227w1(ドリョク岩)西面の懸垂練習

 右肩上から左脇下にザイルを垂らす下がらみの人が多いが、私らのころは、右脇をまいて左肩から垂らす型をとった。

 古ソフトのつぼを切って型をつけて作った愛用の帽子、郡会議員であった曽祖父が着たというエンビ服のチョッキで恰好をつけ、懸垂の写真をよく撮ってもらった。まともなのがなく、戦後に撮ってもらった村本さんのが一番よい。

 

 まぼろしの岩塔「グレポン」

 クラックを攀ぢ、岩稜をわたり、たどり着いた尖塔。これをマンメリーに敬意をこめてグレポンと呼ぼう。ー山のアルバムよりー

 函ガレ最上部東チムニー岩の向かい側に尖塔E3がある。その下、函ガレ漏斗状岩壁の下部ガレに突きでた岩塔があった。E3をトラバースしてゆくと楽だが、私らは函ガレから長いクラックを攀じ、岩稜を渡り時間をかけて登った。頂点に立って下を見たとき、空中にある感じで、高いのに身がすくんだ。岩がゆれ動く感じがしたのは、崩壊寸前であったのだろうか?次にいったとき、その姿はなかった。この岩付近の崩壊がはげしい。一九三七、一原・伽賀

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 トリコニ―岩

 トリコニ―と菅谷がつけた。山にちなんでのことであるが、よく見ると王冠にそっくりだ。ー山のアルバムよりー

IMG_0229トリコニ―岩・健在のころ

 東赤岩山参道の小屋からの急坂を登りきるとすぐあらわれる岩で、自然のモニュメントとして親しんだ岩なのに、心ない人によって破壊された。昭和三十年代のことである。堅い岩なのに、どうして壊したのか?よくよく呪いか怨みがなければできる仕業ではなく、不思議な心理というほかない。こうなると、人為も自然のうちにはいることになろう。そういえば、道に並ぶ地蔵の破壊もこのごろ目立っている

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編集を終えて

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 いまの時代はあらゆる分野で過去の、それは半世紀も以前の出来事や様子を大切にはんせい、復元するという見直しの時期を迎えています。これはとりもなおさず、現代があらゆる面で荒廃し、昔が懐かしく思われるからという単純な感情だけではないと思います。時間が経過すればするほど過去の実績の価値が増大するということに、大きな意義があるのではないでしょうか。

 一原さんの写真は、まさにそれです。自動車道路が山奥までつき、ロープウエーが山頂近くまで運んでくれる現在、何をかいわんやであります。一原さんの山行を再実行する事は、決して容易なことではありません。山行の記録だけでなく、当時の不便なカメラを操作しての撮影の苦労は、さらにはかり知れないものがありましょう。一原さんの苦労を、現代の発達した登山行為とカメラフィルムのメカニズムに比例して強いるならば、現代の山の写真に不可能はあり得ないことになります。不可能があるとすれば、それは現代人の努力が足りない、ということになりましょう。

 とにかく、一原さんはこれまでの「山」に加えて、「山の写真」においても一時代を画しているお人でありました。しかもひそかにであります。

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一九七五(昭五〇)年一二月 村本 輝夫

 

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