大正8年の小樽実科高等女学校

2015年09月25日

 明治時代の小樽区には、現在の双葉女子学園の前身校であった実践女学校や、緑ヶ丘高女の前身校の裁縫女学校はじめ英和学校など人口の割には多くの私塾や私立各種学校があった。くわしくは北海道教育史や小樽区勢一班、小樽市史、小樽市史年表などにも記してあるので、ここでは省略したい。

 今月は、裁縫学校を経て実科高等女学校から緑ヶ丘高等女学校になったこの学校について述べてみたい。

 小樽市史によると『明治44年に西岡朝代が小樽裁縫学校として一私塾を開設したのを始めとし、翌年には住ノ江町に移って小樽女子職業学校と改称したが、その内容はなお裁縫を主とするものであった。

 更に生徒数も増加してきたので、大正7年に緑町1丁目に校舎を新築した。教育内容も充実させ、一般学科を加えて女子実業教育を行うことにより、緑ヶ丘実科高等女学校としてその許可を得た。その折、女子職業学校はそのまま実科高等女学校に併置した』ことが記してある。

 緑ヶ丘高等女学校になったのは、大正10年という資料やそれ以前という資料もあり、今後調査していきたい。

 緑ヶ丘高等女学校は多くの卒業生を送り出したが、戦後廃校になり経営者は札幌へ移った。札幌では、香蘭女子学園としてスタートしたが、その制服は緑ヶ丘高等女学校のものと同じであったという。香蘭女子学園も昭和63年から男女共学の札幌山の手高等学校としてスタートしている。

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 次頁の写真は、小樽実科高等女学校開校記念と印刷されたケースに入っている絵ハガキで、記念スタンプの日付は大正8年10月19日になっている。

 写真Aは裁縫の授業である。黒板には「立幅三丈八尺三寸にて女羽織裁方」と書いてある。興味をひくのは先生や生徒の髪形と着物の模様で大正時代がよく出ている。Bは当時の校舎で右には西岡重義校長も写っている。Cは生徒による作品展であるが、掛ヶ軸、屏風、置物等に際だつものがある。

 なお「小樽区勢一班」によると、この年度の生徒数は100人と記録されている。

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 小樽実科高等女学校が開校した大正8年は、6月にベルサイユ条約が調印(第1次世界大戦大正3年~7年)された年であった。前年(昭和?7年)には小学校国語読本「ハナ ハト マメ マス」(第3期国定教科書)が発行されたが、昭和?8年2月には小学校令、中学校令も改正され国民道徳が強化された。

 巷では「ヴェニスの舟唄」や「浜千鳥」が歌われていた。「浜千鳥」の作曲者弘田章太郎はこの年に「靴がなる」「お山のお猿」を作曲し、翌昭和?9年に「叱られて」昭和?10年には「スズメの学校」などの童謡を発表して多くの人から親しまれた。

 この頃は浅草オペラも全盛時代であった。童謡やオペラによって音楽が大衆の心の糧となり、大正琴、ハーモニカ、ピアノ、オルガンが多く売り出されて音楽産業も隆盛期を迎えた。

 この年、小樽の経済界も活発な動きをみせている。小樽市史年表によると、手宮、色内、花園、真栄町の4ヵ所に魚菜公設市場設立。ミッ馬ゴム工業合資会社、北海ゴム工業合資会社、緑製紙合資会社、更に小樽造船、北海製煉、北海道羅紗、北洋酒造、手宮製材株式会社や勝納製材所などが設立した年であった。

IMG_0514A 実科高等女学校の授業(大正8年)

IMG_0515B 校舎と西岡校長(Aと同年)

 IMG_0516C 生徒による成績品展示

~小樽市史軟解 第3巻 岩坂桂二

月刊ラブおたる 平成5年11月~7年9月号

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