マッサンとリタ

2015年07月14日

IMG_0587一昨日

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参加の記念に

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♢「リタさん」

 ジェシー・ロベールタ・カウン。ニッカウヰスキーの創設者、竹鶴正孝さんの妻、リタさんの名前です。竹鶴さんが大日本果汁株式会社(後のニッカウヰスキー(株)北海道工場)を余市に設立したのは昭和9年、40歳のときのこと、リタさんが余市に来たのは翌10年9月でした。リタさんの余市到着の様子が『ヒゲのウヰスキー誕生す』に微笑ましく描かれています。その日、余市駅には竹鶴さんはじめ社員50人ほどが総出で出迎えていました。竹鶴さんにエスコートされてホームに降り立ったリタさんは「ミナサン、オオキニアリガトサマ、主人トオナジク、ドウゾヨロシュウ。」と関西弁であいさつされました。

 リタさんは初めて見た余市の山並みが、故郷スコットランドととても似ているので喜びました。

 竹鶴さんが大阪の摂津酒造から派遣されて、スコットランドを訪れたのは大正7年、24歳のときでした。3年のウイスキー修業を終えて帰国した二人は摂津酒造があった大阪に暮らし始めました。その後、同じ大阪の寿屋に移って国内初のウイスキー蒸留工場を建設、夫婦が神奈川に移るまでおよそ10年間、大阪に暮らしたので、関西弁がリタさんの最初の日本語となりました。

 摂津酒造、寿屋、大日本果汁創設とめまぐるしく変わった環境の中、リタさんは英語とピアノの個人教授をして浪人生活をしていた竹鶴さんを支えたこともありました。

 余市での二人の生活のエピソードが前掲書に見えます。休みの日には、「男(竹鶴さん)は外国人の妻を連れ、連れ立って馬を走らせた。すらりと伸びた長躯(ちょうく)を乗馬服につつみ、巧みに手綱(たづな)を操る女性に、町の人々は目を丸くした。」

 二人は馬にまたがったまま余市川に乗り入れ、馬上から釣り糸を垂れることもあったそうです。またリタさんがこしらえる漬物やイカの塩辛はとてもおいしく、イカが歯に挟まらないように身の刻み方を工夫して竹鶴さんを感心させたことがありました。

 結婚して日本国籍になったリタさんでしたが、戦争中は警察の尾行がついたり、夫婦で東京に向かった時には函館でリタさんだけが青函連絡船に乗れなかったこともありました。そうしたつらい時代を乗り越え、同26年には息子威(たけし)さんが結婚、男の子と女の子を授かり竹鶴家はにぎやかになりました。

 その10年後の昭和36年1月17日、リタさんは竹鶴さんに看取られて眠るように亡くなりました。64歳でした。

 竹鶴さんはリタさんのことがとても好きでした。

 40年間連れ添ったリタさんのもとへいつでも行けるよう、墓石に自分の名前を並べて刻みました。生きている人の名前は普通は赤い色を入れるのですが、それを拒みました。18年たって竹鶴さんも亡くなりました。

 生前のリタさんの思い出をある方からうかがいました。

 「リタさんは関西弁だったんですか?」

 「いいえ、いいえ、私たちと同じ言葉でしたよ。」

 「しつけに厳しい人だったけど、同じくらい気持ちのやさしい人でした。大阪の方から出張でいらした方がとても早口で、何を話しているのかわからなかったの。そうしたらリタさんが『わかりますか?こう言っているんですよ』とわかる言葉に通訳してくれたんですよ。」

 「働き者でね。家の煙突掃除も自分でやってましたよ。外で仕事をする時は縞模様の吊りズボンをはくからすぐわかるの。」

 「寒くなると洋服よりも着物のほうが暖かいといって。自分で着付けが出来て帯も結べたんですよ。」

 リタさんと竹鶴さんは今ごろ一緒に雪の中、美園の山から工場を見守っています。

《広報よいち 平成23(2011)年1月号 こんな話その78》より

IMG_0659お二人が写ったこちらの写真

『結婚した頃の写真でしょう』とのことでした。

 

IMG_0672HO ほ 7月号より

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昭和10年頃の都通り中心部。スズランの街灯が特徴で、スズラン街とも呼ばれた。カフェーや料理店が軒を並べていた(小樽総合博物館所蔵)

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都通りの北側に続く梁川通り。現在も銭湯や食堂がレトロな風情を醸している(小樽市総合博物館所蔵)

 

IMG_0725正孝が好きだった「館」のシュークリーム