翫右衛門脱走

2015年08月21日

 昭和二十七年夏のこと、当時共産党の前進座が北海道地方巡業に来て道内各都市を公演していたときである。赤平町(現赤平市)で許可なく小学校を会場に使用したという理由で当局から家宅侵入罪の容疑がかかり、一座の責任者である中村翫右衛門に逮捕令が全道的に出されていた。

 赤平の次に公演する会場が小樽の市議事堂で(市民会館がまだできていなかったため、)その使用を申請してきた。そこでこの仕様を認めるかどうか当時市の課長会議に諮ったところ、逮捕状が出ている団体に市の議事堂を貸すということは賛成できないという結論であった。

 私はここで考えた。「思想と芸術は別だ。殊に戦後荒廃した人心をすこしでも緩和させ、健全な娯楽を与えるのは、やはり市長としての務めのひとつであろう。たとえ前進座が共産党であろうとも演劇としては当代一流の芸術ではないか。特に北海道は日頃このような文化の恩恵に浴していないので、こんな機会に洗練された芸術の醍醐味を堪能させることは、まことに意義あるものである。」と私独自の判断でこれを承認した

 そこでこれを知った小樽公安委員会は、どうしても小樽の海上で翫右衛門を逮捕するという。そのために道警から百五十人の警官を応援動員する方針ときいたので、さっそく小樽署にO所長をたずね「小樽で逮捕するということはやむをえないが、しかしそれは議事堂内で行なうことはやめてもらいたい。鉄筋コンクリート三階建の庁舎、その三階にある議事堂の出入り口は二つしかない。窓から飛び降りて逃げることも考えられないのであるから公演後庁舎外で逮捕すべきである。もし警官を会場や庁舎内に入れて逮捕するという場合、必ず共産党員や団体の抵抗や妨害があり混乱を招き、少なくとも関係のない観客の市民に負傷者が生ずることは明らかである。このような危険な事態を市長として黙認できない。だいたい議事堂内にいる一人の人間を捕えるのは、籠の中の小鳥をつかまえるようなもので素人でもできることではないか。まして専門の警察ならいとやすいことであろう。」と私の考えを述べた。私が市長に就任する前一期公安委員を務めたことなどもあり、O所長はこの申し入れを全面的に承認してくれたため警官は議事堂内にははいれない。庁舎外で公演終了後逮捕しようという話し合いが成立した。

 そこで興業は予定通り開始された。。たくさんの市民が観客として 続々と会場を埋め尽くした。そのときのだしものは「俊寛」。主役に問題の翫右衛門が出演し、絶妙の演技で会場を魅了した。そうこうしているうちに会場のモギリ嬢が二、三人の係とともに一人の男を連れて市長室にはいってきた。きくと夏の薄着の背中にかたいものがふれ、これがピストルであったため不穏な人物として連行したという。しかしこの男は終始沈黙を守り、語ることを拒否した。私はあなたは何者かと問うたが、やはりいっさい黙秘権の行使であかさない。そこで私は「背中にもっているピストルは危険だから今は市の金庫に預かることにする。いずれ日を改めてあなたが身分をはっきりしてくれたら、そのときお返しすべきものならお渡ししましょう。」ということで退去してもらった。あとからわかったが、これは近くの余市町にいる警官で、やはり翫右衛門逮捕の目的で私服のまま観客をはいったものという。装うてずいぶん危険な話である。さてその後、舞台では「鬼界が島」の幕がおりるかおりないうちに、主役俊寛に扮した翫右衛門はその場を離れ、庁舎を取り巻く警官の眼をかすめて小樽を脱出、東京から中国に渡ったというのが実相である。その夜、警官と群衆の衝突で、いわゆる火炎瓶事件に発展した。

 しばらくして私が東京・京都に旅したとき、たまたま前進座公演に会い、長十郎など前進座首脳部にいろいろ当時のいきさつを聞きただしたが、肝心の翫右衛門脱出の方法は黙して語らない。なかなか結束が固いものだと感嘆した。最近、この硬い盟友であった長十郎が前進座を離れて中国に渡航し、帰国後、翫右衛門とお互いに離団の経緯をいい合っているのはどうも感心できない。

 前進座の中村翫右衛門と河原崎長十郎、新国劇の辰巳柳太郎と島田正吾、ともに両雄ならび立たずというジンクスの例外として、友情と結束のもとに両雄相たすけ相励まして、よき芝居をみせてくれたのが、前進座はともかく、新国劇は新進の緒方拳などの退団を機に、どうもパットしないようで、われわれ長い間のファンにとって残念なことである。幸いにして前進座が長十郎の抜けた後翫右衛門を中心に昔通りのすぐれた演劇芸術の真髄を見せてくれることはせめてもの慰めである。

~安達与五郎追悼録

安達与五郎の遺稿 わが回想録

翫右衛門脱走より