古き良き「小樽のひとよ」~⑱

2022年01月11日

 IMG_1280冬季オリンピック派遣小樽出身選手後援のため小林千代子独唱会を開催/前列中央小林千代子後列左端安達博士(昭和10年)小林は小樽出身

 

 まさかの市長に十六年も、

 市政の“赤ヒゲ”安達与五郎

 「じゃア、三十分くらい』

 小樽信金の理事長秘書に改めて断って、理事長室に入ろうとしたら、年輩の秘書が笑った。

 「会ったら三十分じゃすみません。一時間、いや二時間かな」

 なるほど晩年の安達与五郎さんは暇なのか、三十はむろんのこと一時間、二時間、そして三時間に及ぶあたりでやっと解放になった。

 話好き、人が良い、典型的な小樽人だが、こちらのインタビューのテープがとうに尽きていた。それから五年位たったか。

 「市史に永久にのこる人」(志村和雄

 「札樽協調を考えた人」(板垣武四

  安達の棺を覆う言葉だが、四期十六年間よくぞ頑張ったりで五十四年八月、好きなウナギも食べなくなって黄泉へ旅立っていった。八十六歳。

 安達は町村金吾堂垣内尚弘の父祖と同じ福井県の人で芦原町に生まれ、九歳で養父母に連れられて来樽、やがて樽中、千葉医専を経て小樽手宮町で開業、さらに大正十一年に京大医学部へ入り直して皮膚・泌尿科をマスターし、同十四年九月から稲穂町で開業した。

 市長になってからは、明治以来の懸案だった高架路線の完成はじめ科学館、学校のコンクリート化、市民会館、小樽病院、産業会館、消防庁舎、市営住宅、商工会館、塵芥焼却所、朝里温泉センター開発、博物館、保健所、血液銀行、青果市場建設、塩谷村合併、札樽バイパス運動、石山貫通、日赤センター問題への努力etc。

 ま、随分やったものだが、その足跡は小樽戦後史そのものだった。

 

 「えらいことになったなァ」

 市長としてのニックネームは“足軽市長”。貫録よりも足でマメに働き相手を和らぐということなのだろうが、本人は市長をやる気はなかった。自分でヒョウタンから駒だといっていた。

 小樽は樽中バツ庁商OBとか、あるいは商売関係でみなつながりが微妙なところだが、一番最初に安達のところへきたのは今度仁木町の町長を勇退した元社会党代議士の島本虎三と改進党の高橋源次郎(民主党道議になる)の二人で、二十五年十一月だったという。明春は地方選だし威張ってばかりいたトノサマ市長の寿原英太郎(戦後初代)も六千万円という赤字をどっさりのこして引退するであろうし、そのあとに樽中票と医師会票を握る安達を保革でもっていけば当選間違いなしと、二人は暗算したにちがいない。

 ヤミ市もまだお盛んだし、アメちゃん混じりの盆おどりが気違いのようにハヤった頃だ。

 安達は前回もこうして出馬を促されているが、息子がまだまだ北大生だからと断った。しかし、このとき息子は北大医学部の副手になっていたから、そのいいわけは通らない。そこで、ヨイショと思ったが、相手の自由党の候補が樽中五期上の新谷専太郎ともっと早くにわかったら「私はでませんでしたよ」だが、時すでにおそし。

 島本らが帰った翌朝新聞を見ると、改進党と社会党連盟で安達を推薦すると出ている。

 「えらいことになったなァ」

 安達は口アングリである。

 次に自由党は、新谷推薦を決める。

 「えらいことになったなァ」

 安達はまた驚く。

IMG_1279第1期選挙/マイクに聞き入る安達候補(昭和26年)

 

 政争フクザツ微妙の海を泳ぐ

 ところが選挙は面白い。開票の結果、安達が二千三百票差で勝ってしまう。

 「えらいことになったなァ」

 で、さっそく新谷のところへ挨拶に行って「先パイ、こんなことになってしまって…。なにぶんご指導を」

 私服を着た新谷は、しょんぼりしていたそうだ。元気でいるはずがない。

 自由党は四十の市議の議席のうち二十五を取りながら、市長が負けた。油断である。売上税なんかなかった。

 そこで、“足軽市長”自由党接近政策をとった。北教組市議の大原登志男本間喜代人は、安達はウラギリ者だと怒る。一方の自由党内もフクザツ微妙で、旧政友会でありながら産業資本の板谷系と商業資本の寿原系に分れ、更に台頭した実力派の松川嘉太郎系、マルヨ野口喜一郎派、医師会の石橋猛雄派に分裂、それに旧勢力の杉江仙次郎元老と直系の岩谷静衛、東策その弟分の高橋巌、また寿原直系では道議になった能弁の三室光雄、コメの北秀太郎、松川直系のお菓子の平野清嗣、野口系では小樽冷蔵の右野喜代治、石橋派では道議田中ガン、セトモノの吉川英次、教育委員の坂下信雄それに元署長山田蔀(シトネ)とか辻勇吉、土建の小野末吉、フトンの山田徳之助らという中間派。

 一方の改進党では椎熊三郎辻嘉四郎高橋源次郎渡辺徳次郎岡本久田、左の方では島本に港湾ボスの蔦谷喜代二、大物境一雄それに北教組、労農党系あるいは田辺順川崎喜代治(右社)三馬重役の鎌田幸次など一人一党一人一くせ、じゃどなたさまで足軽にならざるをえない。そして、うまくいったのが、三十二年の道博で、名物の水族館はその産物なのだ。(写真は安達追悼集より)

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IMG_1278旭展望台の安達胸像(昭和43年6月)

 

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小樽市史軟解 見直せわが郷土史シリーズ⑱

奥田 二郎

(月刊ラブおたる39号~68号連載より)

~2015.8.19~