安達市政と今は亡き忘れ得ぬ人々 (三)

2015年09月02日

 安達市長と中央政界を直結していた最大のパイプは椎熊三郎代議士である。椎熊先生とは第一期の立起以来、政治行動を終始ともにされていた。椎熊代議士は逓信政務次官、衆議院議院運営委員長、副議長という要職を歴任されたが、純粋でどちらかといえば涙もろい大衆政治家として得難い庶民性をかねそなえられた方であり、安達市長とは「ウマ」の合う仲であり、上京すれば必ず椎熊代議士を会館に伺い、小樽の諸問題について適切なアドバイスを頂いたり奔走を願ったのである。市の東京事務所を日本都市センターに開設するまで、市長の宿舎は椎熊代議士の妹さんが経営する旅館を利用させて頂いた。椎熊代議士のお力添えに負うところ多大な事業としては、郵政関係にくわしい立場からの郵便年金簡易保険加入者ホームの小樽誘致をはじめ海事合同庁舎の建設、記念郵便切手として全国にも紹介されるというメリットももつ、ニセコ・積丹・小樽海岸国定公園の指定等々である。その他安達市長は、全国市長会の副会長、北海道港湾協会長、北海道公営住宅建設促進会長等全国、全道を代表して活動しなければならない立場にあったがこの場合、国会・関係官庁への陳情や交渉の段どり等むずかしいとりまとめにきめ細やかに配慮の数々を頂いた。大衆・聴衆の心をつかむ雄弁家としても有名な椎熊代議士の知遇と強い応援を得たことは安達市長にとってなによりの幸いであった。

 安達市長が小樽港を北洋漁業の母船基地として猛運動したとき、水産行政に通じておられた東京都水産物卸売人協会長の寺田省一氏の指導を仰いだ。寺田氏は小樽ご出身で戦前小樽政界を山本厚三氏とともに二分して争ったという寺田省帰氏の令息であり、かって農林省の水産局長をつとめられ(現在の水産庁長官に相当)水産業界における信望を集められていた方で、当時市長に随行して報国水産・日魯漁業・極洋捕鯨・大洋漁業・日本水産・道漁業公社等をよく廻ったもので、ほほ内定というときに日ソ漁業交渉の結果母船減船でご破算になり、大いに残念がったという記憶がある。非常に温厚誠実そのものといった方で、市長が足を棒にしてかけ廻ってその結果について感触など話し合うとき、冷たいお茶を飲み乍ら「一母船の基地となれば地元で食糧、日用品、私財を積込むことになり、独航船の集結や関係家族も入り込むので市の経済に及ぼす影響は相当のものになる」と郷土の振興策を厚っぽく語られていた光景を想い出す。

 苫米地英俊氏は小樽高商(現商大)の名校長から戦後衆議院・参議院に進まれた方であるが、安達市長が初当選の就任挨拶に自宅を訪れたとき「共産党の市長には絶対協力できません」とキッパリ、玄関払いを食わされ、市長もびっくりしたと聞いているが、その後、道知事候補に推されたり、道開発政務次官を経て学者らしく国会では永く大蔵委員会や政審畑を歩まれ、参議院大蔵委員会開会中に市長が訪れたときにわざわざ中座され、僅かな時間でしたがいろいろアドバイスを与えられるとともに心から市長を激励し、委員会室の入口の前に立たれ退去する市長を姿が見えなくなるまで手を上げて見送られたことがある。強い信念の人であるだけに、このように安達市長を遇された所以は偏に市政運営の実態と真摯な姿勢を見られて、高く評価されたものでないかと思う。

~安達与五郎追悼録 安達市政回顧より