安達市政と今は亡き忘れ得ぬ人々 (四)

2015年09月04日

 全国市長会の会長や日本港湾協会長、全国港湾都市協議会の会長もつとめられた神戸市長の原口忠次郎氏は工学博士で都市づくりに独特の識見と力量を発揮され、安達市長は神戸と小樽が地形的に相似していることと、原口氏と正副の役員として職務をともにし接触の機会が多かったためにお互い大変懇意にされた。都市センターの事務所も同じ階にあり、原口市長が六甲山の開発と港湾の近代化にベルトコンベアで六甲山と港湾埋立地を直結するという画期的な事業を進めているとかの話などなにかにつけ先進都市として学びとる部分が多いと話されていたのであるが、安達市長退任後、原口氏が日本港湾協会総会に会長として出席の帰路、確か室蘭市が会場となっていたと思うがわざわざ安達前市長を訪ねるために小樽に立寄られたことがある。さすが大会長、大市長の貫録をもたれた方とそのきめ細やかな配慮と友情の篤さに敬服した。

 国鉄がからむ事業はなかなかむずかしいといわれているが、安達市政の最も精力を傾けた市内の国鉄高架化事業はいろいろな人々の尽力を頂いたが、ときの十河国鉄総裁と安達市長との会見を余市の特定郵便局長柏尾氏が十河総裁の親しい縁戚にあたるというので、正規のルートとは別にこの柏尾氏を通じてひそかに働きかけ実現をはかり、夏の暑い日であったが、国鉄総裁公邸で「高架化事業」の必要性を安達市長が直接説明し、トップからの促進方を要請した。十河氏は国鉄総裁というよりも国鉄にとっては神様的大先輩であり、鶴の一声で万事をまとめられる力を有し、国鉄労組も一目も二目もおくという存在で、赤字国鉄を再建するため三顧の礼をもって迎えられた超大物であった。広大な応接室に安達市長は対面し、岸道三氏が小樽出身で市長の後輩にあたるなど、どうということのない雑談の裡にもにじみ出る大物の気迫が感じられた。この出会いから安達市長は十河信二氏の人柄にすっかりほれ込んでしまったようである。

 全国市長会の事務局長であった後藤博氏は自治省財務局長、公営企業金融公庫総裁を歴任されたが、安達市長の熱意によく耳を傾けられ、交付税・起債など市財政問題のよきアドバイザーとして大きな役割を果たされた。温厚で折り目正しい英国型紳士であられたお姿が今でも目に浮かぶのである。

 野口喜一郎氏は、〇ヨ野口商店、北の誉、合同酒精等の総帥であり、小樽の伝統的名門として著名な当主であったが、小樽ではもちろん、東京においても経済界の有力者として、郷土のためにはいろいろと安達市長を扶けられた。とくに野口氏の所有される別荘和光荘は豪壮なつくりと周囲のたたずまいから常に市として最も大切な来客の宿舎に利用させて頂いた。天皇・皇后両陛下はじめ皇族のお泊り所として設備設営一切を野口氏は多くの犠牲を払われ乍ら「名誉」として喜んでその大任を全うされた。その他安達市長にとっては先輩にあたる野口氏はなにくれと心を砕かれ、公私を通じて深いつながりをもたれた。

 小樽港の発展をはかるには対岸貿易の振興が必要と感じた市長は、人を介して当時東京九段坂の開業医で日ソ国交回復国民会議事務総長の馬島僴氏と会い、戦后厳しい監視の裡をソ連大使館の門をはじめてくぐった市長ということになった。同じ医師ということもあり、ソ連邦の事情に精通していた馬島僴氏との交友は、安達市長の日ソ貿易、沿岸貿易等に対する認識を高めナホトカとの姉妹都市提携にまで発展したのである。

 安達市長とはほとんど似たような経歴をもたれ、市内、全道、全国的に大きく活躍され深いつながりをもたれたのが石橋猛雄氏である。医師としてももちろん政治・教育・文化・福祉・保健その他石橋氏の活躍された分野、役割はあまりにも広く文字通り超人的と申すよりなく、六十七才の若さで生涯を閉じられたが、この間やらなかったのは「市長」ぐらいではあるまいか。常に安達市長のよきライバルとしての位置を占められた名望家である。

 辻喜四郎氏の存在は安達市政十六年にとってまことに重大である。前期は野党・自由党の闘将であり、特に思い出に残るのは国鉄ローダーの議会開会に議長職権で警察官を強引に導入したときの議長として市長と激しく対立した人である。保守合同によって自由党と民主党が自由民主党となり、初代支部長に民主党椎熊代議士が就任し、幹事長に自由党の辻喜四郎氏が推された。それまで自由党として安達市長は政敵であり、いかに無所属、椎熊代議士と緊密な間柄にあるとはいえ、絶対多数の自由党の容易にうけ入れることのできない感情というものがあった。辻氏は当時の自由党には珍しいリベラリストであり、その行動とその前をさえぎるいかなる人をも説得し抜くすぐれた不思議な力をもっていた。この力によって安達市長と自由党のしこりをまたたくうちにとり除き、その代り安達市長に党として筋の通った主張はなにごともキッパリもの申し、実行させ筋道の通らないことには断乎阻止するというように幹事長として、自派のとりまとめはもちろんのこと野党にも自ら赴いて「説得にあたる」という縦横無尽にバイタリティを発揮し、名幹事長、大物幹事長として与野党の信頼を集められた。貧しい裡から独立独歩人生をきりひらき、成功者となった辻氏には人生哲学があり、それが立場の相違を超えて多くの人々を心服させ、安達市政、後半の仕上げにあたる三期・四期、椎熊代議士・辻幹事長・安達市長のくみ合わせで多くの実績をあげ得たのである。なにかにつけて重要な市政の運営はなんらかの形で辻幹事長の挺身に負うところが多かった。

~安達与五郎追悼録 安達市政回顧より