繊維のまち南小樽 

2017年01月02日

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 境内から国道を経て花園町まで、飴細工やカルメ焼き、反物、蝦蟇(がま)の油売りにお化け屋敷やサーカス、見世物小屋などが並んでいた…。

 潮祭りがまだ無かった少女時代、私は妹たちとお化粧をし晴れ着に身を包み、それは賑やかだった住吉神社例大祭に何度も出かけました。御神幸行列は先頭から宮司さん、祭典委員や町の有力者、奴さん、芸者の手古舞、お稚児さん、高下駄の猿田彦。各町会から樽神輿の威勢の良い掛け声が響く。はしゃぎ過ぎて着くずれしては家に戻り、母は「三人も娘がいると大変」と着せ直してくれました。自宅があるのは永井町現在の南小樽駅海側あたりです。南小樽駅から入舟町へ下る坂道を含むこの界隈は、繊維問屋が軒を連ねる道内屈指の問屋街。南小樽、すなわち小樽は全国に名だたる「繊維の街」でもあったのです。

  我が家は「×○(ちがいまる) 黒松宇之吉商店」。糸や洋小物をあつかう商店で、8人の女中さんや小僧さん、丁稚と呼ばれる若い男衆をはじめ、多くの従業員を抱えていました。祖父の黒松宇之吉は大正12年奈良県北葛城郡より来樽、実家は高級糸を使った靴下製造工場で、道内で糸の行商をし、永井町に店舗を構えることにしました。厳格で真面目で信心深い祖父は何よりも仏様を大切にし、朝はすぐにお仏壇のご先祖様に手を合わせる。それまでは誰とも朝の挨拶をしません。私が幼い頃に亡くなった祖父は、初孫の私の前では穏やかで優しく、後の繊維業界の繁栄に貢献した人だったと聞いています。

 

IMG_1868昭和9年3月3日自宅にて 左より宇之吉、清、智意子に抱かれる私

  祖父亡き後、家業を継いだ父の黒松清は、昭和7年に江別の村山呉服店の娘の智意子と結婚、翌年長女の私が生まれます。結婚式は海陽亭で行なわれ、嫁入り道具は赤絨毯敷き詰める中運ばれたとか。結婚式の当日に両人が初対面であったと思えないほど仲睦まじい両親でした。背が高くダンディな父と小柄で物静かな賢母は自慢でさえありました。戦争中、南小樽駅付近の建物が取り壊されるという噂を聞いた父は江別の畑の中に一軒家を建て私たち家族を疎開させ、令状のもと鉾建てへ赴きました。不安と寂しさのなか、私たちは数年を江別で過ごします。無事に戻ってほしいと子供なりに考えた手紙を書き帰宅を待ちました。

  戦中戦後の空白時代を経て、昭和24年の繊維衣料統制撤廃の直後に小樽繊維製品卸商同業会が結成。父は社名を清和産業株式会社と改め、繊維業界の復興と衣料文化の発展のため奮闘。繊維会社の神野さん。、小杉さん、三ッ輪さん、和物は和光さん、栄光さん、丸進織物さんといった同業界の方たちと手を取り合いました。月に一度の売り出しや季節変わりの大売り出しには工夫をしました。各店舗に紅白の幕を張り、汽車で南小樽駅に降り立つ道内各地から仕入れに来る商店主を待つのです。50以上もの繊維問屋が並ぶ通りはお客様であふれました。各店舗はおもてなしするためにたくさんのご馳走を振る舞います。父の会社は小樽の名店と言われた「吉野鮨」から職人さんを呼び、寿司カウンターで握って頂く、神野商店さんはご贔屓の「たこ寅」の屋台を組みました。通りは昔の華やかさが戻ってきました。ある呉服問屋では反物が30反入るケース20箱から30箱を1日で売ったとか。お客様のほとんどが市外の方でしたので南樽界隈独特の風景だったでしょう。

 昭和36年、繊維の殿堂「商工会館」が設立されると店主たちのつながりはますます強くなりました。毎週土曜日の12時に会社代表の有志が集まり昼食を共にして雑談するうちに情報交換をする「12時会」、二代目の集まり「2日会」は家族同伴で親睦を深めました。結婚して婿入りしてくれた夫が2日会に属していたので、私はパーティに着るドレスを一晩で縫ったことが懐かしく思い出されます。

 数年後には父は小樽繊維製品卸商同業会の第4代理事長を務めました。住吉町会長と連合町会長も務めていた父は住吉神社例大祭の行列にも加わり、私の息子たちもお稚児さんの装いで列席させて頂きました。長男は恥ずかしがり、現在私の後を継いで喫茶店主となっている次男はにこにこしていました。

 札幌オリンピックを契機とした札幌の繁栄、デパートやスーパーの躍進、流通経路の変化に伴い、小樽の繊維会社はやむを得ず数件ずつ札幌へと移転していきました。売出しの時の賑やかさも薄れ薄れ、展示会を行っていた旭化成、帝人、ニチボー等のメーカーのお土産の数が少なくなるにつれ切ない思いが込み上げました。

 父は「小樽は繊維の街だ」と言い、頑として札幌への移転を拒否しました。先人たちの志を受け継ぎ未来への展望と小樽の繊維の復興を信じ、……。小僧さんとして父の会社に入社し最後まで尽くして下さった岩井浩三さん、東野作治さんは90歳を過ぎても毎年お盆にいらしては仏壇の前で涙を流して下さいました。

IMG_1869繊維業復興のため父は会社も心機一転

  今や多くの観光客が降り立つ南小樽駅界隈。かつての繁栄のおもかげはまばらです。古びた南小樽駅の駅舎は国際観光都市小樽にとってさまざまな評価を与えられますが、父やたくさんの人々が行き来したと思うとホームへのの通路や長い長い階段は趣があり風格さえ感じさせます。住吉神社へ続く道には小樽病院が建ち行き交う車も増えましたが、幼い頃の風景は今も瞼の裏にしっかりと刻まれています。

 ~黒松 寿美子 著 (喫茶ルナパーク)

 IMG_1864月刊おたる9月号(平成27年9月1日発行)通巻615号より

 

IMG_1850祖父 黒松宇之吉さんは後列右から三人目

IMG_1851ほとんどの方が手を隠しての写真撮影

『魂を取られるという思いがあったようです』

 

IMG_1852昭和7年 海陽亭でのご両親(父 黒松清さん 母 智意子さん)

の結婚式風景

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