73年前の小樽発 その1

2015年10月02日

 3月号は、スミスの飛行大会を通して大正6年の小樽をふり返ってみたが、今月はその翌年のイベントを中心に、大正7年の小樽に着いて述べてみたい。

 「そんなの昔の話さ」「今は時代が違うよ」というかも知れないが、現在の小樽をどう見るかこれからの小樽はどうなるかを思うとき、このマチが過去に歩んできた道のり、あるいは土壌というものが無縁であるはずがない。

 73年前(大正7年)の小樽は市制前の区であったが、その時代の息づかいは現在にも通じるものがあると思う。(大正6年末の小樽は、戸数が1万8000戸、人口は10万3611人)

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 明治2年、ほっかいどうに開拓使を設置し、エゾを北海道と改めてから50年を迎えた大正7年、この年を記念して札幌と小樽を会場として、開道50年北海道博覧会が盛大に開催された。第1会場は札幌区の中島公園、第2会場も同じく札幌区の駅前通り、そして第3会場が小樽区の港(当時の北浜町埋立地)であった。

 期間は8月11日より、9月19日までの50日間で、「新北海道史年表」(北海道出版センター発行)には、この博覧会の総観覧者数は140万人と記してある。

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 海の特色を生かした小樽会場は、水族館を中心として、水産関係のものを展示したが、夜間もオープンするというイキな計らいをみせた展覧会であった。

 午前8時から、午後11時まで(札幌会場は午後5時まで)観客を迎える意気ごみには感心する

 地元のみならず、全道から訪れる人のために万全な受入れ体制と接待の体制もとられた。

 人員の配置や総括を担当する総務部。旅館や宿舎用寝具を供給する宿泊部。食事、船や車の供給と、来客の送迎を担当する待遇部。物品の調達や保管を担当する調度部の4部が協賛会につくられ、その役員は117人であった。

 駅前(現在の小樽駅ほか)の案内所には組織の役員はもちろんであるが、学校の団体受入れには、区内の小学校長が総出でこれに当ったと当時の新聞は報じている。

 小樽に関する質問なら旅館の番頭さんや女中さんも即座に応答できるための学習会を開催したり、開場の接待所にはエプロン姿の女性が、下駄(ゲタ)の緒(を)を繕う体制まで整えた。

 また、宿泊は旅館のほかに、商大の寄宿舎なども使われた。そこで急病人が出た場合は、医者が駆けつけたが、医療費は本人から一切頂かなかった。

 当時の新聞は全道版であったが、これらの対応に「かゆいところに手の届く小樽の接待ぶり』と大きな見出しで絶賛している

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 小樽会場は先にも述べたように夜間もオープンのため、今でいうライトアップで 人目をひいた。

 特に写真でみるように、水族館のパビリオンは、文のテント式のものに比べると美しく立派なものであった。

 この建物は、ルネサンス様式(当時はル子ッサンス様式という活字で表現していた)で、前面には早田楽斎という人が描いた大きな壁面(海底を描いたもの)が6点はめ込まれていた。

 また、屋根には海の女神を描いた絵画も飾られ、周囲には3つの池もつくられた。

 入場券を買い、見学して門を出るときその券を見せると、劇場の半額割引きや、協賛商社から提供された時計をはじめ、

白米一俵などの景品が当る福引券が渡された。また、会場内では宝袋も売られたが、その中には勤業債券や貯蓄債券も入っていたという。

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 観覧者を区民ぐるみで温かく迎えた博覧会。大正時代の小樽っ子がみせた心意気の博覧会……。

 この年の11月、第1次世界大戦が結終するが、小樽は一段と好景気を迎えるのである。

 その直前に開催されたこの博覧会は、その意味においては大きな小樽の発信とステップであったと思えるのである。 その後、本道においては開道70年、開道100年博覧会と続いていくが、その中に「小樽」が常にあったのである。

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IMG_1906港内では水上自転車を楽しむなど海全体も会場と化した博覧会

 

IMG_1907夜空に映えるメーン会場の水族館

~小樽市史軟解 第1巻 岩坂 桂二

月刊ラブおたる 平成元年5月~3年10月号連載より

 

『小樽の奥深さを見つけました。』

先週、入船町界わいを歩いていると、

IMG_2098あなたは、買いますか?

IMG_2118これがキンチャヤマイグチです

『歯ごたえがあっておいしいんです。』