オタモイ地蔵

2015年10月18日

 風光明媚なオタモイの海岸の奥に、オタモイ地蔵とよばれるものがあります。このオタモイ地蔵は、別名「子宝地蔵」、又は「乳授けの地蔵尊」ともよばれており、結婚して子供に恵まれない人々によって、今もなお一年中、信者の姿が絶えません。この地域は、オタモイ遊園地として栄えた時代には、信仰を兼ねて大へんな賑わいであったといわれております。細い海岸路には、白蛇弁天洞、そして弁天閣のあとがあり、オタモイ地蔵本堂には、信者が願をかけておわった小さなお地蔵さんが数多く祭られておりまた、地蔵尊の胸には、いつくしむように赤ん坊が抱かれております。いつの世にも子を思う人々の心は共通です。ところでこの地域にはいくつかの由来、伝説があります。

 その昔、神威岬が女人通行禁制時代に、越中の国(富山県)高岡に住んでいた医師の一人娘が同じ村の百姓の息子と相愛の仲となりました。しかしこの結婚は許されず、二人は親の反対を押し切って小さな所帯をもつのですが食べることもままならないせいかつでした。仕方なく夫である青年は、『蝦夷地の鰊場へ』ヤン衆として働きに出ることになったのです。一方娘は、身重になり夫が働きに出てから何の便りもなく、夫に対する思慕の情は、ますます募るばかりでした。こうして毎日やるせない思いで夫の帰りをまつより行って松前の吉田漁場まで行ってみようと決心し、弘化四年魚津から松前に運行する弁財天にのりこみました。やがて船は無事松前に着きましたが夫はそこにおりません。そこで神威岬を越えなければならず、女の乗った船が岬を通ると、必ず、大シケになり船が沈んでしまうので、これから先、女は絶対に行ってはならないとのことです。しかし、一日でも早く夫に会いたい一心の娘は、意を決して女人禁制の「オカムイ」を越えて忍路場所へ向かう二十四人乗りの弁財天の船底にひそみ密航を企てたのでした。弘化四年四月二十二日船は松前を出港し、平穏な航海を続けましたが、やがて神威岬にかかると大シケとなり、船は木の葉のようにゆれ禁を犯してることに気を病んだ女は、皆に素性を話し許しを乞うや否や、猛り狂う白い波の中に若い身を投げました。そのせいか神威岬を越えたあたりから、波は少しずつ静けさを取り戻したようです。明けて二十四日、昨日からの嵐もすっかりやんだオタモイの浜に美しい女の体が打ちあげられ、、その豊かな乳房からは、母乳が溢れ出ておりました。付近の漁師達はこの美しい女をあわれにおもい、小さな地蔵堂を建て、手厚くほうむってやりました。この地蔵堂を建てた漁師のひとりに、松蔵という若者がおりました。松蔵は越後のひとで、故郷におよしという愛妻がおりましたが、子どもがいませんでしたのでその地蔵に毎日「子どもが生まれますように」とおいのりしていましたところ、後日故郷へかえってから美しい女の子を生みました。このような話があってから、この地蔵尊を誰いうとなく「子宝地蔵尊」と呼ぶようになりました。しかし、この地蔵尊本来の真相はこのような悲しい物語とは直接関係がありません。

 忍路、高島場所請負人の西川家では場所請負で儲かり、大変な財力を築きましたので、その謝恩をかねて、神威の海で年々沈んでいった船の人々の霊を弔うため、嘉永元年(一八四八年)に、百体の地蔵尊をこの蝦夷地に建立することを発願しました。その後、年移り人かわり、西川家の十一代当主西川吉之輔が、ふとしたおりに先代の残した古文書の中からこのことを知り、昭和三年に、はるばる祝津を訪れて、ようやく七体を発見しました。このオタモイ地蔵尊もそのひとつなのです。そのうち五体は、高島正林寺、祝津竜泉寺、稲穂五丁目無量寿寺、オタモイ海岸、忍路大忠寺に安置されているそうです。

 今、長い風雪に耐えた地蔵堂に、ゆるやかに灯がともり、安産を祈る人、子供の病気完治の御礼、などの人たちが集っており、昔の話をしのばせています。

 多くの規制のある時代に造られたこのお地蔵さんが今、大きく発展し、生活がみごとに豊かになった世の中にあっても人の心は同じものに救いを求めています。お供物を供え、経をあげ、一つの社交の場となりつつある地蔵は、又後世の人にも伝えられることでしょう。

 

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~オタモイ・幸地区のむかしより

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興味をもってこのブログを見て下さっている方の中にはどうして、『昨日までの、「西海岸にしん漁場の食、自然、漁業」がオタモイ・赤岩なの?と感じた方もいると思います。『蝦夷地の鰊場へ』ということばがどうしても気になったのです。』

 

IMG_2744昨日、市場に行くと

IMG_2745今、獲れているんですか

IMG_2746うだよ

『買おうか買うまいか、迷いました。家には努の店の生干しニシンもあるし、史上最強のミガキニシンもあるからなあ。今日は我慢‼』