山谷温泉

2015年11月07日

 龍宮閣よりも古く、昭和の初め頃、小作人であった山谷寅之助さんが鉄鉱泉を混入したおふろを思いついた。

 鉄鉱泉はオタモイ七曲りの二段目位の所にため樽をおいて、それを人力で運んだようです。「一週間に一日、二斗樽を背おい、一日に七樽から八樽運び、運び賃は一樽、十八銭から二十八銭位だったと思います。山谷さんは温厚な人で私がおなかが大きくて樽に八分目位しか鉱泉を入れないで運んでも一樽分お金をくれました。満杯にしなければ樽を背おってると背中で、チャポンチャポンと音がしてわかるもんなんです。あんたはおなかが大きいのに大変だねといって、ねぎらってくれた程でした。と、当時をなつかしんで話してくれました。その鉄鉱泉と、井戸水を(近くより200m位、パイプで引きこみ)それと混ぜて、わかしたのが温泉であった。四度Cの鉄鉱泉を混ぜた湯は温泉のように手ぬぐいが赤くなり、温まりが早く、湯ざめしにくかった。午後三時から四時頃には湯治客が町からもやってきた。入浴料は十銭位だったようです。

 離れと、宿泊施設が整っていて、とうじ客もいたそうです。丁度、今の吉川商店の倉庫のあたりに、のんびりした温泉宿らしきものがあったようです。戦争が激しくなり、ぜいたく施設とみなされ、昭和12年支那事変の頃で倒産したようです。

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~オタモイ・幸地区を中心とした郷土史より