西海岸にしん漁場の食、自然、漁業 その1

2015年10月05日

(1)西海岸にしん漁場の歴史

ー焼尻島に住む人々

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 北海道の地理や行政の区分からみて、西海岸地方という地域名称はほとんど使われることがない。しかし、近世からにしん漁によって開け、発展した北海道西海岸の漁村は共通する民俗文化や生活様式を色濃く受けつぐ等質文化圏であったといえる。

 それは、南は渡島半島松前、江差から北は稚内や利尻、礼文の島に至る海岸線六〇〇キロメートルを超える広大な地域であるが、海岸線から内陸部への幅はわずか数キロメートルというきわめて狭い地帯でもある。近世の北海道は松前、江差、箱館を中心とした松前藩領である松前地と、蝦夷地に分割されていた。松前藩領と蝦夷地には近世初期から集落の発達が見られ、領民の多くはにしん、こんぶ、鮭などを生活の糧としていた。

 したがって古くから北前船による本州各地との交流がさかんである。当時の記録によれば、身欠きにしん、肥料とするにしん粕、新巻き鮭、寒干したらなどの産物の見返りとして米、味噌などの食糧はもとより、家具調度品、はなはだしくは墓石にいたるまで各地からもたらされる状態で、松前、江差などでは町人ばかりでなく郷村の庶民の生活も、当時の東北地方の農村などと比較すると、かなり高い水準の生活が保たれていたといえる。

 近世中期ごろまでにしん漁でにぎわった松前の海も、安政~天明年間(一七七二ー八八)をすぎるころになると漁が衰退し、領民の生活がおびやかされるようになる。このため、領民の多くがにしんを追って蝦夷地へ出漁する、いわゆる「追いにしん」がさかんとなり、奥蝦夷地の漁場の開拓が促される。

 もともと松前地の漁民や東北地方からの出稼ぎ漁民は、松前藩領内での漁が原則であり蝦夷地への出漁は禁止されていたが、享保四年(一七一九)ごろから徐々に松前地に近い蝦夷地の寮が許されるようになる。これが大きく進展するきっかけは安永~天明年間の松前地の不漁で、寛政五年(一七九三)には積丹岬を越え石狩までの出漁が許され、西海岸地方全域ににしん漁場が形成される。

 また、それ以前から松前藩の知行制度である、蝦夷地各地方の交易権を藩士に与え、これを承認が請負う場所請負制度の本拠地とした運上家が各場所に設けられているが、各場所においても追いにしんの漁民を二割の現物税を納めることを条件に歓迎したため、出稼ぎの者がふえ、西海岸にしん場の基礎が築かれていく。(続く)

 IMG_2231より

『 今日の見聞録。』

その一

IMG_2496朝 七時すぎ

IMG_2497いつもなら20時20分頃or4時20分頃見る光景

IMG_2499入港シーンが

IMG_2500今日は7時20分頃見ることができました

その二 鱗友市場へ鰊を買に。

IMG_2506これ一箱3キロ入りの生筋子 先ほど一箱売れました。

IMG_2505また売れました

『イクラをつくるんですか?』

「そうなの。いろんな知り合いに送るの。運賃の方が高くつくわ。」

『こんなに売れるものなんですか?』

「一人で250箱買う人もいるよ。今200箱分、出来ているけど。まだこれから…。」

~恐るべし、小樽~

その3

IMG_2507郵船裏の鉄道がきれいに現れました

その4

IMG_2513けたたましい音と共に市立病院、屋上ヘリポートに

IMG_2514疾風のように現れて

IMG_2515約十分後に

IMG_2516疾風のように去っていく~♪月光仮面

二日間、歩き通しだったので、足首が悲鳴を上げました。