西海岸にしん漁場の食、自然、漁業 その2

2015年10月06日

(1)西海岸にしん漁場の歴史

ー焼尻島に住む人々

 だが、この時代からしばらくの間は定住する者も少なく、漁期がすぎると松前地や東北へ帰るといった出稼ぎ地としての性格が強い地域であったが、明治に入り、場所請負制が廃止され、漁場持ちの親方たちが漁の先頭に立って漁場の経営をはじめるころになると、しだいに定住する者もふえ、明治中期には天塩や宗谷といった奥地の漁村も人口が増加し、にしん漁に依存する独特の社会を発展させていったのである。

 本書の一つの対象とした焼尻島は、留萌支庁管内羽幌町に属し、古くからにしん漁のさかんであった地域である。羽幌の北西二十五キロメートルの海上に位置し西四キロを隔てて天売島と向かい合っている。島の周囲は十二キロメートル、東西四キロメートル、南北二キロメートル、面積五・三平方キロメートルの離島である。

 この島も近世からにしん漁の前線基地としての役割を果たしていたが、明治初期から松前、江差、津軽、秋田などの出稼ぎ者が徐々に定住し、村落の形勢がなされている。とくに明治中期以降になると、秋田県男鹿地方からの出稼ぎ者や定住者がふえている。秋田県南秋田郡戸賀村は男鹿半島の先端部に位置し、狭い山地が連なり農地に乏しく、住民の多くは前浜の漁と、松前地稼ぎ(にしん漁、鮭漁などの漁場稼ぎ)が伝統的な生計の手段となっていた地方である。明治中期ごろになると、焼尻島や天売島へ出稼ぎに行き、そのまま定住するものが急速にふえ、大正時代になると、焼尻島では島の人口の八割以上が戸賀村出身者によって占められ、別名秋田島と呼ばれるまでになっている。

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