流芳後世 おたる 海陽亭 (七)

2016年01月11日

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『2階床の間』~その3

 この床柱を背に、日露国境劃定会議の宴会が開かれたのは、1906年(明治39年)のことである。

 当時の写真には、ロシアのウォスクレセンスキー委員長が床柱を背に、その左にアルチェーフー一等大尉、右隣に小樽区長が写っている。

 一節にはこの宴により、ロシア側委員の気を和らげ、交渉を成功に導いたとされている。それを労ってか会議の後、ふたたび海陽亭で宴会が催されている。

 日本の歴史上、極めて意義のあるこの宴会の模様を〈小樽市史蹟樺太国境劃定会議誌〉に見てみよう。

 『11月12日(月曜)晴 午前9時、露国委員長一行、浦鹽斯徳より到着、予等と旅館越中屋に同宿す。(中略)

 11月13日(火曜)曇 午後1時半、日露両国委員会議、小樽なる日本郵船会社支店にて開会、郵船会社支店にては日露両国の会議室に充てれたるは面目なりとて、北海道名産タモの木材にてまとめたる貴賓室の中央に大卓子を据え、辺眩き唐紅の毛綾織を敷き詰、上に大輪なる黄白の菊花と、翠滴る松の盆栽を安排し、周意殊に典雅なり。六時閉会。

 閉会後郵船会社支店土方信吉より茶菓の饗応あり、支店長は三鞭酒の杯を挙げて、支店の一室が日露両大国の国際上の用に充てられたるは望外の栄誉なりと挨拶するや、露国委員長は世界に航路を拡張せる日本郵船会社の支店にて此の如き丁重なる待遇を受くるは、亦吾々一行の栄誉なりと答礼し、七時散会。

 11月16日(金曜)晴 本部にて魁陽亭(山ノ上町に在り現に海陽亭と称す)に宴を張り、露国一行及び小樽官民を招待す。

 杯に至るまで新調して日露両国旗を彩る。

 露国委員長演説していわく、「北海道は日本新開地なりと、而して其の開発の急激なる此の如し、日本人が精力の旺盛なるに感嘆す。」と。宴後、小樽の諸君子と海亭の雅会に赴く。

 11月19日(月曜)曇 午前九時、日露両国委員会議開会。

 午後三時半閉会。

 五時、小樽官民の催せる日露両委員歓迎に赴く、「忠臣蔵」等演劇数番(水野一座にして外に喜劇「結婚媒介所」も上演と、時の小樽中学校長清水実隆氏の回顧談)。

露国委員長欣然として舞台に登り、日本の芸奴と手を執りて踊る。十時歓を尽くし散会。

歓迎会後漁業家藤山氏等の招にて魁陽亭の宴に赴く。』

と記されている。(原文のママ)

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修業の厳しさそして楽しさを

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『ヴィオラブーケコンサートも聞きたかったのですが、図書館へそして市場へも行かなければ。来年また、機会があれば…。』