流芳後世 おたる 海陽亭 (八)

2016年01月13日

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『2階床の間』~その4

 “幸せは、背に柱 前に酒 両手に女 懐に金”

 ざれ歌に唄われるように、床柱を背にするのは、今も昔もステータスシンボルの一つであることに変わりがない。

 原木のままの本黒檀を、殆ど見ることができなくなった昨今、海陽亭に鎮座し、時の移り変わりを見据えてきた床柱と対座し、語り合うのも一興である。

 この床柱、見付け幅270mm、見込み幅270mm、長さ4000mm、重さ216㎏ を超える立派なもので、前述の通り原木では、殆ど見ることが出来ない、貴重な材料となってしまった。

 この黒檀、普通の鉋では削ることが出来ない。鉋の刃を曲勾配にした、唐木指物用のもので、力と技で削るのである。

 海陽亭の床柱は、原木を斧で、はつって仕上げた。薙面仕上げである。ものすごく堅い材なので、床の間の改修や長い年月の経過に拘わらず、建築当初の長押の跡以外、表面には殆ど傷がついていない。むしろ、長い間に使いこまれ、磨かれ、風格が備わり旧套墨守の感がある。

 床の間には、板畳が敷かれている。この板畳の縁には、白地に紋を織り込んだ高麗縁である。

 高麗縁は畳縁の中では、最も上等で、神社や御殿、床などに使われる紋縁である。紋縁に使われる、紋様とは、かつて支那大陸や朝鮮半島を経て、仏教の渡来と共に、各種の美術品、装飾品等と一緒に輸入された繧繝錦(うげんにしき)という織物に端を発する。 この美術織物を、皇室の御座畳(みくらたたみ)に用いたのが紋縁の始まりで、現在でも、高麗縁は、高級な縁とされている。

 大広間が建てられたときには、床柱は梁間の中央にあった。

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 しかしその後、床の間の幅を一間半に狭め、黒檀の床柱を右側に配し、左側には椎の釣束を配した現在の形に変わった。床の間に向かって左に一間半の床脇、続いて付け書院がある。

 床の間と床脇の間にある椎の釣束と地束は自然木を用い、木口を漆で塗りあげ、木の乾燥を防ぐのと装飾を兼ねている。

 床の間に向かって右側にも床脇があり、天袋、地袋がある。

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  この床脇と天袋、地袋の形は大広間が建ったときと同じ形である。

 ここまで見てきたように、海陽亭に於ける大広間のある棟の姿は、1階の内部を除き、全体の雰囲気は建築当時のまま、今に伝わっていると言えよう。

IMG_3266『天袋・地袋~向かって右側の戸棚のようです』

IMG_2999普通の鉋で削ることの出来ない床柱

『唐木指物用の鉋って今でもあるのだろうか?』