取引所界隈 その2

2016年01月07日

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…天下の大相場を張った室清次郎を出したところでもあった。

 その頃小樽中の小学校の連合運動会が花園公園であったもので、その日は児達よりも親達の張り切る日なのは今も変りない。色の白い大柄な小倉の母親がその頃まだ珍しく高価なものであったバナナを持って来て小倉の仲よしに配って呉れたものであったが、バナナの美味しさもさることながら、大丸髩の淡紅色の手柄がなんとも艶やかで美しかったのを覚えている。その頃から筆者女好きであったのであろうか。その癖級友の小倉政雄のことは至って記憶がない。母親似なのであろう。色白で太った目の細い児で余り出来なかった。白豚と綽名をつけたことを思出す。

 同じ級友である稲積稔となると厳父稲積豊次郎氏が初代稲穂小学校保護者会の初代会長であった人で稲積倉庫は今に残っている。

 稔は温和しい優等生で、遊びに行くと母上か女中さんかがつき添って児達の遊びを見守っているような家庭であった。「遊ぶ前に手と足を洗いなさい。」という母上の一言で大きな風呂場で足を洗わされた事がある。四角の湯槽で赤く色のついたお湯でなんだか余り気持がよくなかった。

 後で聞くとそれは自慢の湯槽で、一位(おんこ)の厚み二寸もある板で出来たもので、、湯はいくらか赤く色がついたという。今ならば百万金を投じても出来ない湯槽であった。これは稲積猶氏の談話である。この家の三人の男児いずれも優秀で、長男猶(樽中十二期北大)二男豊二(樽中十五期、一高東大土木部)三男稔(樽中十七期、一高京大)で稔は後に三菱重工業の常務取締役を勤めた。今も寛々たる風格の大人である。富裕な秀才一家というところであろう。

 今電報局のところに寿館という小樽発の映画館があった。その頃は活動写真といって無声で必ず弁士がついた。一人は大山団州といい一人は大野高堂といった。大野は後の手宮館主で色男の気取り屋で児供達には人気がなかった。団州は丸坊主の大男でどういうつもりか弁護士の法服のような黒のガウンを着ていて、猿飛佐助や三好清海入道の声色が上手で児達には断然人気があった。

「ここもと御覧にいれまするは、おなじみ尾上松之助主演難波戦記。難攻不落の名城と謳われました大阪城も、豊太閤逝いて僅か三年。片桐且元の孤忠もむなしく……御ひいきの松ちやんは大軍師真田幸村に扮しましての大奮闘。勇士あり、豪傑あり、美女の悲恋をちりばめましての大絵巻……」というようなことで児供の血を湧かしたもので、今の児達がテレビの怪獣に魅せられているのと変りない。尾上松之助は日本映画初期の名優で、名弁士といわれた関楓葉の出現はこれより稍後のことである。

 その寿館の裏が棟割長屋で、按摩さん、煮豆屋さん、あぶとなどがざつぜんとして住んでいた。その中に片目の児沢山の大女がいて、四人も五人もの餓鬼としか呼びようもないような汚い児がいて、朝から晩までその児達をどなりつけていた。

 幼い児を背中にくくりつけて寿館の看板をかついだり、よいとまけに出したりしていた。赤児は背中で首が抜けないかと思われる程そり返って寝入っていた。勇ましい主婦とでもいうところであった。

 よいとまけというのは、建築する時、地形を築くため杭を打ち込んだり石を入れたりするのに鉄槌で叩き込む作業で、鉄槌を縄で高々と吊上げ、サッと縄を放して勢いをつけて鉄槌を落下させる作業で、卑猥な唄をうたったり、行人をひやかしながらやっているものであった。

 児がいたのなら亭主がいたのであろうが、覚えていない。片目で赤茶らけた髪をそそけさして日がな一日中児達をがなりつけているので、人呼んで「鬼がか」と可哀相な綽名したものであった。社会保障も何もないその頃のことで、生きてゆくのが精一杯であった母子のすがたであったろう。思ってもうら淋しい。ガンべ(湿疹)たかりの三ちやんといった児、今どこでどうしていることだろうか。

 その後何年かに取引所は堺町に移って、あのころの面影は消え失せた。

 筆者の家が現在安達病院のところにあった大きな借家であった。父はその頃電灯会社の社員で、近所の雑然さに恐れをなしたか、一年半程で緑町に移った。その間の追憶である。(文中敬称を略した事をお許し乞う)

~タイムマシン小樽 田辺 順

 月刊おたる

 昭和48年3月号~昭和12月号連載より